いくら何でも土下座ってのも……格好悪すぎるし。
ああ、もうこれでアスカに情けない男と思われて、ダメかな……と思い始めて、そろそろと重い気持ちになりかけて顔を上げた。
見ると、アスカがうつむたまま、涙をぽとぽと、テーブルの上に落としていた。
「あ、アスカ……！？」
泣いているらしい。
僕は、アスカが泣くのを初めて見たから……それなりに衝撃を覚えた。
「バカ。どうしてそうバカなのよっ。そんなに正直に謝られたら、わたしが意地悪できなくて困るじゃないのっ！……どうせパートナー組みを解消させられるんだから、その前にああだのこうだの言って、チルドレンをさんざん困らせてからって思ってたのにっ！ そんなに素直に謝られたら、わたし、もう、する事ないから、泣くしか……ないじゃない。どうしてそんなに、チルドレンってバカなのよ。バカバカっ」
アスカは、声を震わせながら言った。
「いや……僕、ダメだよ。アスカとパートナー解消するなんてできないよ。好きとか……そうじゃなくて、なんて言うか……もう既に互いがお互いの一部になってしまってるし。今度の事は僕が反省すれば済む事だから、もう、仲直りしようよ、ね？」
「うん。……いいわよ」
ものすごく素直な声でアスカが言うもんだから、僕は逆に驚いてしまった。
でも、それにすぐ気づいたアスカは涙を拭うと、すぐにいつもの口調に戻って言葉を続けた。
「やっとチルドレンも、わたしの有り難みがわかった様ね。わたしがいないと、やっぱりダメなのよね。ま、反省してる様だから、許してあげるわ」
その言葉を聞いて、ようやく肩が軽くなったのを覚えた。
やれやれ。
「そうと決まったら、家に帰るわよ。……あーあ、誰なのよもう、こんなに人の部屋を散らかしたのは……チルドレン。掃除するわよ、手伝いなさい」
「はいはい」
それから僕たちは、部屋の掃除をする事にした。
てきぱきと、アスカは片づけていく。
あっと言う間にアスカは復活してしまった様だ。
ほんとにこんなので良かったのかな……でも、まだ、たまに鼻をぐずらせている。
さっき、アスカが投げまくったゴミの中に食べ残しが混ざっていたもんだから、それが壁とかにべっとり付いてて、僕らはそれを落とすのに苦労した。
でも、よく考えてみるとアスカが僕に投げたものは全部、当たっても怪我をしない様なものばかりだった事に気づいた。
とにかく、ようやく掃除が終わった時、時計は早や、晩の７時を回っていた。
「あ……もうこんな時間。今から帰ってもぉ……と。チルドレン、ちょっと待っててね」
そう言うと、アスカは先生のいる居間に消えた。
アスカが居なくなって、改めてこうして見渡してみると。
部屋はさっきまでの惨状が信じられないくらい、きれいになっていた……すぐに、アスカが戻ってきた。
「チルドレン。もうこんな時間だから、晩御飯一緒に食べようって。いまからわたし、急いで直美さんと夕食作るから待っててね」
「あ……手伝うよ」
「いいのいいの。今日はわたしの当番だし、どうせカレーだからパッパッ、と作っちゃうわよ」
それから夕食を済ませ、僕たちは直美さん、いや、先生に深く礼を言うと、一緒に家に帰った。
「ちょっと何よコレ、チルドレン。散らかし放題じゃない。信じられない」
僕が無精に散らかした室内を見て、アスカは驚嘆の声を上げた。
「だって……それにアスカだって散らかしてたじゃないか」
「わたしのは、ちゃんとどこにどのゴミを置いておくか、計算した上で散らかしたのよ。でもチルドレンと来たら、もう。ランダムなんだから……さ、さっさと片づけるわよ、コレも」
計算して散らかす、ってのは。
アスカらしくて、むしろ懐かしかった。
でも、また掃除だ。やれやれ……。
「あーっ。お酒なんか飲んで……カップ麺食べてるっ。レトルトカレーもっ」
「……アスカだってみそカップにレトルトカレーかけて食べてた、って言ってたぜ」
「直美さんったら、喋ったのね……もうっ。んー……まぁ、たまにはああいったものも食べないと、バランスってモンがあるでしょ？ たまには悪食もいいものよ」
ああいえばこう言う……すっかり元に戻ってくれた様だった。
それからそれぞれ風呂に入ったりなんやかやで、気が付くと時計は深夜一時を回っていた。
幸い明日は特に予定はないから良かったものの、僕たちはもう眠くなったのでそれぞれの寝室に入った。
ベットに入って、目を閉じるとしばらく考えた……アスカと出会って５年……ＮＥＧＥＶＡの教祖との面会、アスカの秘密と謎、アスカとの諍いと仲直り……。
それよりも、一番の問題はアスカの抱えているものを、どうやって僕自身も支えていくか……それに尽きる。
サードインパクト、数億人の死……それは直接的な殺戮ではなかった。
それは人々の精神に対して起きたもので、突然何者かが侵入して、ヒトの深層意識にあるとされる生存本能を極端に昂進……つまり暴走させた。
結果、サードインパクトを受けた人々は例外なく精神に変調を来し、多くの人々は発作的に自らの命を絶っていった。
本来自分自身を守るために備わっていた生存本能が暴走することで、逆にその本能が自死へと向かう。これは精神医学界における盲点であり、誰も逃れることは叶わなかった。
中には、集団自殺を行ったり、まだサードインパクトを受けていない他者をも殺害する様なケースもあったらしい。
その有様は、２０世紀末に問題となったカルト宗教の集団自殺を彷彿とさせる惨いものだった、と伝えられている。
インパクトは人類全てに対して一斉に起きたのではなく、徐々に染み通る様に進んだんだけど、その代わり同時多発的に、それも人口密集地域を中心に起きたのだからたまらない。
特に被害は、キリスト教文化圏に顕著だった。
治安は破壊され、世界の主要な大都市はいずれも、たった僅か数時間の内にその機能を停止した。
最終的には、犠牲者数億人。
結果、人類が有効にその世界を機能するに足りるギリギリの人口を残して、サードインパクトは終わったんだ。
僕と両親は幸いな事に、心にインパクトがやって来るのが遅かったために、難を逃れたけど……世界は大混乱に陥り……でも、今度はインパクト後の地域紛争や大殺戮は起きなくて……恐らく、精神攻撃を受けた事による人類全体の精神のショックが、闘争心を奪ったのだろうと言われている。
結果として今日の新世界体制が発足する事となったんだ。
それにしても？
アスカって、レイの話だと一度は死んだ様な事を言ってたけど、現にこうしてアスカは生きているよな？ そこら辺の辻褄がどうも合わない。
それよりも、アスカはＮＥＲＶ……シンジやレイ達を守るために人を殺してしまった事をもの凄く気に病んでいるみたいだ……相手は軍隊だったと聞くし……アスカって凄いな……あ、いや、とにかく相手も殺されるための職業みたいなもんだし……でも、僕だって同じ境遇に立たされたら……。
あの、一見勝ち気で武道のたしなみもあって、何でも来い、に見えるけど、本当は普通の傷つきやすい女性であるアスカが、そんな過去を背負っていたなんて。
それに……レイが言っていた事からすると、アスカがサードインパクトを引き起こしたわけではなさそうだけど……アスカは、自分ではサードインパクトの共犯だと思い込んでいて、深く傷ついている。
僕がアスカにしてあげられる事って一体……何がある？
そこへ、急にアスカが現れた。
「ばあっ」
アスカの声に目を開けると、暗がりの中に……目の前に、アスカの顔があった。
「うわっ」
びっくりしてしまった。
かすかにリンスと石鹸の香りと、アスカの匂いと温もり……吐息。
「チルドレン。悪いけど……ちょっと手伝ってよ。メールが溜まっちゃって、わたしひとりじゃもう、読み切れないんだモン」
メール……ああそうか。
アスカは、メールも読まずに引きこもっていたんだな。
僕は手伝う事にした。
「いきなり現れるからびっくりしたよ。よく音を立てないで入って来れたね」
「ふふ。だってチルドレン、もう寝てるんだもん。物音立てずに部屋に入るのはわたしの得意技の一つよ」
アスカの部屋のＨＵＢに、僕のノートパソコンをケーブルで繋いだ。曰く、ワイヤレスは信用できない、らしい。
「チルドレンの認証、開けておいたからサーバーに入っていいよ」
実は別室に、アスカ謹製の個人的隠れサーバーが設置されている。それは、中程度の研究所に必要とされる負荷に耐えられるだけの容量を持ったモンスターサーバーだった。
けれども、外観上はちょっと大きめのタワーケースでしかない。
脇には、液体窒素のボンベがスペアとカラのもの含めてものものしく置かれている。
その中には、いろいろと詰まっていて、何かやっているらしい。どうも、高次量子数の量子コンピューターの実験も密かにやっているらしいが、僕はその資源のうち、せいぜい数パーセントしか解放してもらっていない。
僕は接続して、アスカに届いたメールのうち、カーボンコピーに僕が指定してあるものだけをチェックした。
それらは別段、僕の受け取ったカーボンコピーとは変わらないし、後はアスカに一言二言聞きながら、返事をしたりしていけばいいだけだっので、ちょっと時間はかかったけど楽な仕事だった。
「終わったよ。じゃおやすみ」
もう三時だ。
このところ、アスカの事で眠れない夜が続いていたから……眠い。
「あ、もう。ちょっと待っててよ。冷たいわね……コッチはまだなのよっ。ほら……こんなに」
自分の部屋に戻ろうとした僕に、アスカは到着メールのタイトルリストを見せた。
「いいのかい？ 僕になんか見せて……あっ。これってもしかして」
「そうよ。わたしとチルドレンがパートナー解消、ってのをどこで聞きつけたんだか。わたしとのパートナー組みの立候補メールなのよ……まったく、モテるってつらいわね。中にはこんなに長文の奴もいて……まぁ、冗談抜きでわたしの生資権が目当ての連中がほとんどの様だけど」
「え？ でもアスカの生資権ってどのくらい……」
「知らなかったの？ 前にディズニーランド貸し切りやったでしょ？ あれからほとんど使ってないし、チルドレンと作ったＭＦＳ……あれ、結構生資権稼いでるのよ。そうねぇ……ランキングなら……少なくとも世界で１００番以内には入ってるわね」
「じゃ、アスカって実はお金持ち……」
「お金、ってのは資本主義経済での約束事だから、それからすると、わたしはただの貧乏な新世代側のよろず業、ってトコかもねー。うう……でも、生資権の保有クレジット数からすると……んー、お金の基準に合わせれば、中進国まるごと一つ程度は買えるだけのものはあるかしらね……ふぁぁっ。むにゃむにゃ……」
「ほら、アスカだって眠いんじゃないか。メールの事は後にして、もう寝た方がいいよ……」
「う……ん。やっぱ、そうする」
僕は寝室に戻った。ベットに入って……目を閉じて……アスカ、もう寝たかな？……んー……。
そこへ、またもや急にアスカが現れた。
「ばあっ……んん」
アスカの声に目を開けると、暗がりの中に……目の前に、アスカの顔があった。
「うわぁ……っ」
ちょっとびっくりしてしまった。
かなりはっきりとリンスと石鹸の香り。アスカの体臭と暖かさ、そしてあれ？ 頬にサラリとしたアスカの金髪の感触と、酒の匂いと重み……？
これは……アスカが僕の上に覆い被さっている。
耳元に、アスカの吐息とささやき……。
「チルドレン……眠い」
「はは……ここは僕のベットだよ。ははっ、こ……困ったな」
僕も男だから、アスカに対して性的興味を持った事がない、といえばウソになる。
だけど、パートナーって関係はなるべく相手に対して、必要以上に干渉しない事が絶対条件だから、それを悟られない様にして来たけど。
それに、僕だって生理的現象はあるから、２１世紀になって復活した公営風俗施設……俗に言うところの色街で、ある種の欲求を満たす事もしてるけど……僕は一体何を言ってるんだ。
「ね。今夜は一緒に寝ようよ……一人だと、眠れないの……じゃ、おやすみ」
なんだ。
そうだったんだ。
一瞬、避妊具の事まで心配した僕の一人相撲の様だった。
そう思うと、急激にわき起こってきたある種の衝動もすっ、と消え失せてしまった。
僕はアスカを起こしてしまわない様にそっ、とアスカの体をそばに避け、枕を整えてやると、手回しよく予備の簡易ベッドを引きずり出すと、そこに横になった。
目を閉じて……今度こそ。寝るぞ。
うとうとした頃、またアスカが。
今度は僕の体を揺すってる。
「ちょっとチルドンレン……？ 起きなさいよ。……何、紳士ぶってるの。ほらぁ、わたしのそばに来なさいよっ」
「ん……もう、眠いから……おやすみ」
「寄り添って寝るのよっ。一人だと寂しいんだからぁっ。わたしをほっといた罰よっ。さ、いらっしゃいっ」
「へいへい……」
もう半分寝ていたので、寝ぼけたままアスカの隣に横たわる……んー？
「ね、チルドレン。見て……」
「ふみふみ」
ぎょっ。
目の前にはアスカのはだけた白い胸が。
「わたし、キレイ？」
「う……うん。きれいだよ」
「触っても……いいわ」
僕は、ねぼけ眼でそろりそろりとアスカの胸に触れた。
ぷっくりとしてて柔らかで、暖かくて、さらりとしていて、それでいて吸い付く様な……とても気持ちよい感触だった。
鼻腔を、アスカの体臭とお酒の匂いと……とにかく、素敵な匂いがくすぐる。
思わず、僕はアスカを抱きしめる。
「あ……」
アスカが、少し驚いた様な、それでいて甘い声を出しながら身じろぎした……でも、抵抗はしてない。
アスカの体……アスカって、こんなにちっちゃかったんだ。
現金なもので、また引き出しの中にしまってあるはずの、あるものに意識が移ってしまった……たしか、まだ２つは残ってたよな……。
それでも眠くて仕方ない。
アスカの柔らかい体と温もりの心地よさに、ついうとうと……。
このまま寝てしまったら、アスカに恥をかかせてしまう事に……えい、ほら、目を覚ませ。シャキッとしろ……起きろ、起きるんだ。
……でも、もうその心配は必要なかった。
抱きしめた僕の腕の中で、アスカは早や寝息を立ててくうくう、眠りに落ちてしまっていた。
その屈託のない寝顔を見ていると、どうにも妙なキモチは消えてしまうんだ。
もしかしたら、アスカの抱えているものを僕自身もこれから、一緒に支えていってあげられる様な……代わりに、そんな不思議な確信が僕の心に芽生え始めていた。
僕は、アスカの胸をパジャマの奥にしまって、その小さな頭を僕の伸ばした手の上に載せた。もちろん、手がシビれてしまわないように枕やクッションも組み合わせて。
二人は、向かい合う様な形になった。
「お休み。アスカ」
そう言うと、僕もまた、深い眠りに落ちた。
その３へ 続く
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