先生とは、僕たちの研究室を含めた大学院の専任医師で、僕たちのヘルスケアをしてくれている、昔なら保健室の先生みたいなものだ。
よく、精神的に参ってしまった女性の生徒や研究生は先生のところに泊めてもらってセラピーを受けたりしていた……つまり、行き所のなくなった女の子たちが最後に頼る駆け込み寺……あれ？ 例えが良くないけど、そんなものだった。
女の子たちからは、名前そのままで親しみを込めて、直美さんと呼ばれている。
旧世代側の人で、以前は旧医学界の最大学閥で抜きんでた才媛……つまり出世のトップコースを疾走していたらしい。
その才能は現場の臨床学から最先端の研究まで、余すことなく発揮されていたらしい。けれど、サードインパクトの惨状とそれを食い止められなかった当時の医学界に失望して、今ではごく普通、学校の保健室の先生、で通っている。
僕は先生に、すみませんでした、そちらにおじゃまします、と電話。
それから途中で花屋に寄って花束を買った。
花の種類はよく判らなかったけど、とにかく手に持てるありったけの、そこらの花を選んでもらった。
僕は花束を手にして歩きながら、覚悟を決めていた。
まあ、いくら落ち込んだと言ってもあのアスカだから、死にかかっているとか言うのは僕をたきつける冗談に違いない。
きっと、行ったところで僕の事なんか忘れて、先生ととおしゃべりなんかしてる頃だろう。
そう。……素直に謝ろう。
僕もこの数日、アスカが存在しない辛さをイヤと言うほど思い知らされた。
だけど、アスカが僕をもう必要としないのなら、それはそれでいいんだ……実際、こんな時って男って弱いと思う。
逆に女はあっけらかんとしているもので、結局いつでも、最後に男が笑われてしまうのがオチだ。
だけど、僕はそれでいいと思う。
だって、女ってそんなものなのに、どうしてこっちがわざわざ無理をさせる必要があるんだろうか……別にカッコつけているワケじゃないけど。
先生の診療所に着いた。といってもマンションの一室だけど。
彼女は独り身だ。
だけど、仕事の都合上、部屋数が必要なのでわりと大きな物件に住んでいるらしい。
僕は前に２〜３回、何かの用事で玄関までは訪れたことがあるけど、中に入ろうとするのは初めてだった。
高層マンションの、それも結構高い階にあったから、吹きさらしの通路を吹き抜ける風が妙に強かった。
しばらく躊躇したけど、勇気を絞ってチャイムを鳴らした。
心臓がドクドク言ってる……下手な期待は……命取りだぞ、と僕は自分に言い聞かせた。
中から、もう年は４０代にもなるかな……先生が出てきた。
「はい。あ。……は、早く入って」
僕は、先生にせかされる様にして中に入った。
「ちょっと……どうして今まで放っておいたの？ アスカが……ひどい事になっているのよ」
「は……？」
「アスカ……もうずっと部屋に閉じ籠もりっきりで出てこないのよ。三日になるわ。あの子、その間ずーっと食べるものも食べないで、お風呂にも入らないでいるわ。どうしてキミはアスカのそんなところに気が付いてなかったの？ パートナーなんでしょ？」
ちょっと繊細なところは知っていたけど、まさかあのアスカが……そこまで落ち込んでしまうなんて……。
僕は胸に苦いものがこみ上げてくるのを噛み潰しながら、アスカが泊めてもらっている部屋に急いだ。
部屋の前で、僕は一度深呼吸をした。
……もうこうなったら、どんなアスカの罵倒にも耐えるつもりだった。
軽く、ノックをする。
……返事がない。
振り返り、付き添いの先生に目で問いかけた。
先生はそれに答えた。
（大丈夫。鍵はかかってないはずよ）
そーっと、僕はドアを開いた。
アスカは……いない。
ベットを見ると……居た。
毛布を被って、丸くなっていた。
そんなアスカを見て、僕の心は少なからず痛んだ。
先生が声をかける。
「アスカ……アスカ？ 起きてる？ ちょっといい？」
「ん……う〜ん……何？ 何なの？」
「それが……」
アスカは促されてのそり、と顔を上げた。
そして、僕を認めると……。
「キライキライ大っキライ！！ アンタなんか帰ってよっ！！ どうせわたしの言う事なんか信じられないんでしょっ！！」
とたんに、アスカはそこらのものを投げ付けてきた。
「あっ。アスカ、お、落ち着いて……落ち着くんだ」
「ウルサイ！ うるさい！ 出ていってよっ！ 出てけ！！」
最後はドイツ語になっていた。
仕方なく、僕は一時退散する事にした。
「……アスカ、もう今更、未練がましい事はいわないけど、せめてこの花でも受け取ってくれればうれしいんだけど」
僕はアスカに物を投げ付けられながら、手にしていた花を静かに床に置くと……部屋のドアを静かに閉めた。
「あ、頭にゴミが付いてるわよ」
先生に注意されて、頭の上を確かめると、そこにはカップ麺のカラが乗っかっていた。アスカが食べたのだろうか？ これを？
それを手にとって見てみると……「みそ味特大カップ」、器の中にはひからびた小さなサイコロ状の、レトルトらしきカレーの残骸が……。
「アスカって、カップ麺とレトルトカレーが大嫌いなんじゃ……」
「知らなかったの？ アスカってカップ麺にカレー入れて食べるのが好きなのよ。わたしもたまにそうやるけどね……それより、どうするの？」
「どうするのって、そりゃもちろん、アスカが落ち着くまで待ちます。どうなるかわからないけど、このままじゃどうにもやり切れないし……でも、もうここで帰るべきなんでしょうか？ 僕は……」
先生は辛抱強いセラピストでもある。だけど、僕まで甘えてしまうなんて……なんか恥ずかしい様な情けない様な。後悔と自責の念で、穴があったら入りたいくらいだった。
「……お茶でも飲む？ もう少し時間を見た方がいいと思うわ」
先生のマンション、つまり診療所の居間は広くて、３０畳はあった。つい、きょろきょろ見渡してしまった。
「ふふ……。たまにここで生徒や研究員を呼んで、女だけのパーティーとかするのよ。たまにはストレス発散も必要だしね」
「ああ。アスカも前に良く、話していたパーティーの事ですね」
しかも、適度に片ずけられていて、心地よかった。
でも、アスカほどキッチリとした感じではなかった。
「悪かったわね、アスカほどしっかりしてなくて」
「あ……いや。そんな事、別に思ってなんか。……ごめんなさい」
う〜ん、さすが先生。先生はまるで読心術でも会得しているように、みんなの心を言い当てる。
「相変わらず馬鹿正直なのね。まぁ、そんなところがアスカも気に入ってるんだろうけど……実はあわてて片づけたのよ。電話があったから」
「すみません。アスカも世話になってるし……」
「もう、アスカのパートナー止めるつもりの人が、なに言ってるの。心配なんかする必要はないはずよ」
「いや。僕はできればアスカと再びパートナーを組みたいんだけど、僕はアスカを信じて上げられなかった……資格なんてないですよね」
「ふーん……あのさ、キミ、本当はアスカを信じたくなかったんじゃなくて、アスカの受け止めている現実に戸惑っただけじゃないの？」
びくっ。
「言ってる事の意味が良く、判りませんが」
「そんな風に言うのは、結構図星の証拠かしら……。だけど、いいかげん意地を張るの止めないとアスカがかわいそうよ。あなたたちの家の部屋の事にも関係するけど、女の子なんて、大半は男と一緒でズボラなのが普通なのよ」
「はあ」
「それがどうしてきれい好きになったり、周りを片づけたりするのか、ラブコメとか少女漫画とか読んで知ってるでしょ？ デタラメも多いけど、真実も言ってるところがあるのよ。ああ言うのって」
「はは……」
「アスカだって同じなのよ。あなたと一緒に住んでるから、部屋を片づけるし、カップ麺にレトルトカレーかけて食べる様な事もしないのよ」
僕は考え込んでしまった。
あの自由奔放に見えるアスカが、実は僕のためにいろいろと合わせていたなんて。
そりゃ、アスカがいろいろな面で気を使ってくれてるのはわかってた。
でも、そこまで……。
「まあね、そんな事は普通、女の子にとって当たり前の事だし、だからと言って相手に知られたい、ってものでもなくて、むしろ知られたくないって事だから気にしなくてもいいけど。それにね、あの子、自分の悩んでいる問題については一言も喋らないのよ。全部キミが知っている、の一点張りで」
さすがにあの内容は先生にも打ち明けられないだろう、と思った。
だけど、やっぱり先生だ。僕の心の中にしまってある問題をズバリと言い当てられてしまった……そう、僕は僕の思っていたアスカのイメージと、本当のアスカの姿とのギャップに戸惑っているんだ。
「あの子はキミを……ん？ あ、アスカ」
いつの間にか、アスカが居間の入り口のドアのところに立っていた。
先生……直美さんを、手招きしてる。
一瞬、僕を見つめてくれたけど、すぐにプイ、と横を向いてしまった。
先生と二人で何かを話し出すと、二人は奥に消えた。
やがて、先生が戻ってきた。
「アスカ……会ってもいい、ってさ。行ってあげなさいよ……でも、もう絶対に意地になっちゃダメよ。よく話し合って、これからどうするか決めればいいわ」
「アスカ？ いいかい？」
ノックをしながら僕は声をかけた。
「カギ、かけてないわよ……」
部屋にはいると、さっきよりも室内は片づけられていた。
テーブルの上はきれいに拭かれて、そこに置かれた花瓶に僕の持ってきた花が生けてあった。
僕とアスカは、テーブルを挟んで向き合う形で座った。
アスカは、丁寧に正座している。勢い、僕も正座せざるを得なかった。
これではお見合いみたい……う〜ん……。
「ありがとう。この花って、福寿草よね。花言葉は『思いで』よね」
「え？ そうなんだ。その花にそんな意味があったなんて……知らなかったんだ。ゴメン」
「やっぱりね。どうせそんな事だろうと思ったけど、これからは……女の子に花なんか送る時は気を付けないとダメよ、チルドレン。相手によってはすごく、キズ付けちゃう事になるんだから」
「うん」
妙に神妙な雰囲気のアスカが、かえって不気味だった。
僕の後悔は、勢い、頂点に達した。
「それで、どうするの？ これから」
「どうするって……」
こうなったら、僕の取るべき行動は一つ。
半身引いて、手をついて、アタマを床にこすりつけて……すなわち、僕は土下座したんだ。アスカの前で。
「ごめん。僕が間違っていた。アスカの言ってた事はウソじゃない……ウソじゃないって、僕は心の底では思ってた。だけど、僕は、僕が思っていたアスカのイメージと、本当のアスカとの違いに戸惑っていたんだ。あれから、いろいろと考えたけど、やっぱりアスカがいないと寂しい……って、いや、研究も進まないし大変なことに。僕には……アスカが絶対、必要なんだっ」
アスカは、しばらく無言だった。
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