翌日の昼過ぎ目覚めてみると、アスカはベットに居なかった。
まさか……と思って飛び起きたけど、すぐアスカの味噌汁の匂いに気づいて、ほっとした。
「もう、いつまで寝てるのよチルドレン。目が腐っちゃうわよ。さっさと顔洗って、着替えてご飯食べたら、出かけるわよ」
台所には、エプロン姿のアスカが居た。
今日はちょっと気候がいいので、短い白のホットパンツに赤のシャツだった。
すらりとした白い素足がまぶしい。
あの深夜の事、覚えているのだろうか？
「ちょっとお、なに赤くなってんの？ チルドレン？ ……具合でも、悪いの？」
「あ、いや、別に……あ、すぐに顔洗ってくる」
食事を終えた後、お茶をすすりながらアスカに聞いた。
「出かける、って……どこに？ 今日も余ってた有給休暇出しといたから、のんびりしようよ」
「ダメ。出かける先は……ＥＵの旧ドイツ地方。そこから、目的地に向かうわ……チルドレンに、どうしても見せたいものがあるの」
今からドイツになんて。急な話だった。
「そんな急に。切符だってまだ取れてないし、支度だってあるし……それに今月はもうあんまりゆとりがないし……定期貯金をおろすのも、ちょっと今からだと銀行ギリギリだし」
アスカが、もうやってらんないわねぇ〜って調子で首を横に振った。
「あーもう、所帯じみたコト言っちゃって。大丈夫よ。生資権はこんな時に使うの。ほら、もう切符や軍資金はおりているわ」
アスカはそう言うとＰＤＡの画面を見せた。
確かに、既に切符の予約と、滞在費用相当の生資権からの換金は完了していた。……いつもは生資権を絶対に使おうとしないアスカが？
「アスカったら、言いだしたらもう止まらないんだから」
僕は半分あきれながらも、少し期待してしまった。
ドイツといえば、アスカの生まれた国と聞いている。
そこへ二人きりの旅。何かありそうな……
「言っとくけどチルドレン。これは観光旅行ではないわ。それはしっかりと肝に命じて置く事」
アスカは真顔で僕を見つめながら言った。どうやら、ドイツには何か重要なアスカにまつわる何かがあるらしい。
僕は、つい今しがたまでの浮付いた気持ちを振り払うと、無言でアスカに頷いた。
それから、僕たちは直行便、しかもファーストクラスで（アスカの希望で……僕はエコノミーで良かったのに）ユーロ連合の旧ドイツ地方へと向かった。
ユーロ連合はセカンドインパクトでかなりの陸地を海に奪われてしまっていたけど、それも南極での海水再凍結プロジェクトの進行によって、徐々にではあるが、陸地は戻ってくる方向に向かいつつあった。
空港に着くと、僕たちは空港のカフェテリアで軽く食事をした。
やっぱり、本場だけはある。ソーセージとジャガイモのパイがおいしかった。
「チルドレン……おいしいからってあんまり食べ過ぎると後でひどい目に会うわよ」
その時は、アスカのその言葉の意味がよく判らなかったんだが……。
それから僕たちは目的地へと向かうトランスポーター、つまりバスに乗り込んだ。
目的地は、ドイツ地方のとある有名一流大学だった。
「ねえ……チルドレン？」
「なんだい？ アスカ」
大学へと向かうトランスポーターの中で、アスカは妙に消沈した様子で話しかけてきた。そういえば、飛行機の中でずっと、彼女は珍しく無言だった。
「もし、もしもよ。わたしがわたしでなかったら、どう思う？ キライになる？ それとも……」
う〜ん。アスカの様子を見るに、どうも相当アスカは落ち込んでいるか、もしくは何か心に隠し持っているらしい。
「アスカ。君はあくまでも君じゃないか。そりゃ、アスカが例のチルドレンだった事はあったとしても、もう過ぎた事だし。そんな事が君の将来を阻むなんてのはまず、ないと思う。誰だって一つや二つは……抱えて生きてるものなんじゃ……ないかな。はっきりとはいい切れないけど」
「わたしの抱えているものは別のところにあるわ。そこは今から行く所。そこには、もう一人のわたしがいる」
どうも、アスカの抱えているもう一つの問題は、かなり深刻なものらしかった。
一体、どんな事がアスカの心に影を落としているのか……見当が付かなかった。
僕は、どう答えていいのか判らず、そのままアスカの消沈をうつされたまま、黙りこくってしまった。
やがて、トランスポーターは目的地へと着いた。
アスカは、この大学にも学籍があるらしく、ＰＤＡのＩＤを使って学内への立ち入りを認可してもらった様だ。
僕はパートナーとしてアスカが身分を保障したので、同行できた。
最近はテロリストや宗教団体による学内への侵入を防止するために、ＥＵ諸地方の一流大学は検問が厳しくなっている。
ＥＵへの統合を果たし、二つのインパクトで大量の犠牲者を出しながらも欧州は生き残った。しかし、まだまだ複雑かつ深刻である様々な問題から抜け出る出口を探しあぐねているのが現状だった。
さらにアスカと僕は、医学部のキャンパスへと歩みを進めた。
医学部と言うと、あんまりいいイメージは持っていない。せいぜい、事務部への出入りくらいなら構わないけど、奥の実習室とか資料室とか、そんなところは苦手だ。
なぜなら、そこにはあまり見たくないものがあったりするから。
「さ、チルドレン。ここからはあなたも認証出すのよ」
気が付くと、僕らは事務室も形式的な挨拶とともに通り抜け、とある建物に続く回廊を仕切っているドアの前に。
「うん……ここはえーと、げっ」
その回廊への入り口のプレートには、ドイツ語と併せて英語で「法医学資料棟」とあった。
ここがどんな場所なのかは知っている。
見たくないものばかりの場所だ。
「アスカ、本当にここに入るの？ できれば、僕は外で待っていてもいいんだけど」
妙にそわそわしてきて、落ち着きがなくなってきたのが自分でも判る。
でも、アスカは首を横に振った。
「チルドレン。あなたはわたしが誰なのか知りたい、って言ったわ。そうである以上、わたしはあなたに本当の事を見せる必要があるの」
アスカが、真剣な目で僕の瞳を覗き込んでいる。アスカの瞳は妙に透明で……綺麗と言うよりも、ガラスの様な透明さで……そう、それはあのＮＥＧＥＶＡの教祖、綾波レイの瞳にひどく似ていた。
僕は、自分が逃げられない状況に立たされているのを知ると、黙ってアスカに続いて網膜と指紋のパターンを、認証のために照合装置にかけた。
資料棟の内部は最新のもので、モダンで明るい造りだった。
幸いにも、僕のイメージから外れて、資料や標本はそのほとんどがデジタイズされ、電子化されていたので、標本そのものは保存性を考慮して冷蔵コンテナーに収納されていて、まず訪問者の目にいきなりそれが晒される様な事はなくなっていた。
一見すると、ただの巨大な食品倉庫にしか見えないらしい。
……と、言ったのは、僕はアスカに導かれて直接展示室へと向かったからで、実際の上の階の様子は後から大学の職員に説明されただけで、見に行っていないからだ。
それにしても、食品倉庫って例えは……実際に職員の女性が言ったのだから、そのまま借用したのだか……まぁ、いい例えではないのは確かだ。
「ここよ。ここに真実が眠っているわ……」
アスカが、ほとんど僕にしか聞こえない様な小声でつぶやいた。
「チルドレン、もう一度聞くわ。もしかしたら、ここでもう、わたしとあなたとのパートナー関係は消滅してしまうかも知れない。でも、もしここであなたが、わたしとこの部屋に入る事を拒んだら、わたしの方からパートナー組みの関係を解消する。ここには、あなたの嫌いなものばかりあるわ。だけど、わたしはあなたにどうしても見てもらいたいものがあるの」
静かに、それでいてゆっくりと重みのある言葉でアスカは僕に、いわば最終通牒を突きつけてきた。
……僕はこくり、とうなずくとアスカに言った。
「いいよ。早く入ろう」
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