その日、俺はいつものように清掃後の確認に受け持ちの湯殿に向かった。
そこはこの鶴来屋にいくつもある湯殿の一つで、最近俺がスタッフとなって新設したばかりの所だった。少し解りにくい外れの場所にあるが、客の評判はまあまあのようだ。
暖簾をくぐり、素早く脱衣場を隅から隅まで見渡し、チェックする。ここは合格。次に湯船のチェックをしようと、風呂場へと繋がるガラス戸に手をかけた時、中に人の気配を感じた。
(あれ?まだ入浴時間ではないんだが……お客さんかな?)
今は循環風呂による24時間風呂が当たり前だが、鶴来屋は隆山温泉の筆頭湯本であり、配給の湯量が多いのと、何よりお客さんの快適を考えて湯の入れ替えと清掃を定期的に行っている。この湯は夕方3時からの営業になっている。
(たまーに、待ちきれずに入ってしまうお客さんがいるんだよな)
俺はそう思い、手を引っ込めた。そして、声色と声の大きさに神経を配りつつ、中のお客に声をかけた。
「すみません、ここの従業員なのですが、もうお客様はお入りですか?」
しかし、返事はなかった。
そういえば、脱衣場にお客さんの衣服がない。まさかすっ裸で客室からおいでになるなんて……少し俺は躊躇したが、思い切ってもう一度声をかけた。
「お客様、中にお入りしてよろしいでしょうか?」
やはり返事はない。
俺は急に不安になり、思い切って中に入ってみる事にした。もしかしたら、お客さんが中で倒れたりしたり、トラブルかも。
「失礼いたします」
中にはいると、古風な木造りの脱衣場の明るさに慣れた目に、外から差し込む午後の柔らかな日差しがまぶしく、ほのかに立つ湯煙が浴室の隅々をしっとりと濡らしていた。我ながらいい風情だよな、と思った。
湯船は入り口から少し隠れたところにあるので、湯船の様子を見るには、もう少し中に入らないといけない。念のため、もう一度声をかけてから湯船が見える位置まで中に入った。
湯船を見ると、なにやら人影が。湯煙でよく見えない。
「……お客様?」
それでも返事がない。湯船のすぐ近くまで進み、中腰になってお客さんの様子を伺った。何か変だ。
そう。そこにいたのは、着ぐるみを着たお客さんのようだった……ってったって、着ぐるみを着たまま入る客なんているはずもなく、俺は自分の目を疑った。
(一体、どうなっているんだ?)
こちらに背を向けて湯船に首まで浸かって……いや、首はどこにあるのだろう? 頭と胴体が丸く一体になっているのが澄んだお湯越しに判った。しかも、全身毛に覆われていて、それはベージュ色の艶やかな毛並みで、どちらかというと金色に近い。そして、耳が丸く半円に頭から突き出ていて……そう、あの千葉にあるという著名なレジャー設備のキャラクターを思わせる形だった。
「ね、ねずみ!?」
つい、俺は驚きの声を上げてしまった。
「ちゅ?」
俺の声にようやく気づいたのかどうか、そのネズミの着ぐるみはくるりとこちらを向いた。そして目が合った。俺はさらに驚いた。その顔は、まさしく……。
その人の名を呼ぼうとするかしないか刹那、そのネズミは大きな声を上げて湯船から飛び出ると、
「ちゅーっ!」
と(鳴き?)叫びながら目にもとまらぬ早さで、洗い場を抜け、器用に露天風呂へのガラス戸を開け、そこから外へとスタコラ逃げていってしまった。
「あ、ちょっと待って!」
あわてて追いかけ、外に出ると、露天風呂を見渡した。
が、既にそのネズミはどこかに行ってしまった後だった。
「あれはいったい何なんだ?」
温泉の独特の香り立ち込める中、俺はその場にしばらく立ちつくしてしまった。
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