翌日、予備室を覗いてみた。もちろん、鍵は忘れず、「使用中」の札を掛けていたので、香奈さんや太鼓姉さん以外に誰かがこの部屋に入ってくるという心配はいらないはずだった。ところが、中に入ってみると、そいつ、ねずみは居なかった。
「あれ？ どうしたんだろう？」
元気になって、どこかへ行ってしまったのか。
それはそれで結構な事だが、ちょっぴり心の片隅で寂しい気がしたのも事実だった。
だけど、それは俺の勘違いだった。
その日、夕食時になって俺が板場の近くを通り過ぎたとき、妙に騒がしかった。
「どうしたんですか？」
俺が聞くと、たまたま今日の配膳当番だった太鼓姉さんが首をかしげながら答えた。
「変なのよ……どうしてもお客さんの食事が三食分、足りないのよ」
「作り忘れとか、そういうのかも？」
「いやいや、わたしが当番の日はビシっとシメるから、そんな事はないわよ。いつもなら急のお客さんのために用心として、お得食は５食くらいは余分に作るんだけど、それが今日は２食しか余ってなくて、まぁ、急なお客さんが今日は入って、たまたま２名さんだったから、問題はないんだけどね……だけど、こういう事はちゃんとしとかないとね」
鶴来屋では、宿泊料金との兼ね合いで食事にも４つの基本パターンがあって、お得食、並食、豪華食、特別食となっている。
お得食というのはお安く泊まれる、宴会や企画宿泊用で、一通りの会席料理になっている。材料は安くて新鮮、まとめ買いの出来るものを使い、ボリュームがあって食べやすいものを用意している。
並食と豪華食は少々値が張っても旬の素材をふんだんに使い、創作料理に近い趣があるメニューで、これは一流料亭並みのものを用意している。並食と豪華食の違いは、主に料理点数の違いと、豪華食の場合は希望によって板前さんが客室に出張して目の前で調理したり、お客さんの方で好きなものを注文したりと、自由が利くかどうかの違いだ。
特別食は、糖尿病や腎臓病などの主に生活習慣病を持つお客さんのために、症状に沿ったメニューが中心で、お客さんの要望によっては薬膳料理をお出しすることもある。
どの料理にしても、一流の板前さんが腕をふるって調理している事に変わりなく、味は一級品だ。
個人的には、俺のような庶民育ちにはお得食が一番ボリュームがあり、なじみのある料理に近いものが出てくるので、一番のおすすめなのだが……。
まぁ、それは置いといて、俺も太鼓姉さんを手伝って、足りない三食分を追跡してみたが、結局見つからなかった。
それに、よくよく調べると従業員の夜食用に作っておいた、あぶらげの煮たものとか、いくつかの材料、大皿が一枚、それも無くなっているという。
「う〜ん。これは困ったなぁ」
「そうね……でも、これだけ探して判らないって。はぁ、わたしもまだまだだね」
「いや。これは姉さんのせいじゃ無いっすよ」
ちょっとがっくりきた太鼓姉さんをなぐさめた後、俺は他の雑用に戻った……しかし、一つ気になる事が出てきた。
俺は、『翡翠の湯』の予備室に向かった。
まさか、と思いつつも中にはいると、そいつが居た。
「ちゅちゅ」
部屋の中央にちょこん、と座って、嬉しそうに俺の顔を見た。
俺は……それに目もくれず、そいつの周りを見渡した。やっぱり。お得食に使われる什器が散乱していた。
「お前……」
足りなかったお得食は、こいつが盗み食いしたんだ……。俺は確信した。
「何で勝手にそんなことを」
「ちゅ？」
俺は、そいつの後ろをつかんで、部屋から追い出そうとした。
「ちゅーっ！ ちゅーっ！」
とたんにそいつは抵抗し、俺の手元を離れて逃げ始めた。捕まえようとする俺から逃れようとするそいつ。でも、最後には壁に追いつめた。
「ちゅ？ ちゅ？」
「いいから、出ていくんだ。泥棒ネズミは出ていくんだ」
その言葉を聞いたか聞かないか、そいつは激しく首を横に振った。
そして、そのままその場に座り込んで、何度も頭を下げた。ごめんなさい、ごめんなさい、と言っているようだった。
俺は、その仕草に少し思いとどまった。
「ちゅ……」
そこへ、また目に涙をためながら、そいつは大皿に盛られた何かを俺に差し出した。
それは……どうもいなり寿司のようなものだった。
「これは？」
そいつは、それを手にとって、口に入れる仕草をした。俺に、食べてみろと言っているらしい。しかし、妙に怪しげなそれに対しては、抵抗があった。
「お前が作ったのかい？」
「ちゅちゅ」
こくり、こくりと頷く。
なんだか、その仕草がとても愛らしくも哀れで……俺はこう言うのに弱くて。
まぁ、俺には鬼の力が備わっているから、何を食べても腹を壊すなんて事は無いから……仕方なく、それを手に取ると、一口食べた。
「うわっ」
驚いた。美味いのだ。美味すぎる……。
見ると、お得食のメニューにあるエビやら牛肉やらカニやらいろいろ、混ぜ込んである具が入っている。要は旅館での「懐石料理」のチャンポンなのだが、それらが絶妙なバランスで混ぜ込んであって、とにかく美味かった。
まだ夕食を口にしていない俺の腹が急に活動を初め、まるで胃そのものがポンプになったかのように、そのいなり寿司を吸い込んでいく。ほおが吸い付けられたようになり、文字通りほっぺたが落ちそうになった。
勢いで４つほどあっという間に食べ終わった。
「ふうっ」
見ると、目の前にニコニコと笑う、千鶴さんそっくりの顔をしたそいつが居る。
なんだか、千鶴さんが急に料理上手になったようで、変な気分だ。
「そうか。お前。これを俺に食べさせようと」
「ちゅっ」
コクコクと頷く。
「悪いことしたな……俺、勘違いして。でも、勝手にものを持っていくのは行けないことだぞ」
俺がそう言うと、ペコペコとそいつは謝った。
それを見て、自己嫌悪におそわれつつも、急に俺はそいつに名前を付けたくなった。
「そうだな……。おまえ、ちゅーばかりだから、ちゅーちゃんって名前はどうだ」
「ちゅ？」
「イヤか？」
「ちゅちゅっ」
首を横に振る。
「そうか。決まりだ。これからお前のことをちゅーちゃんって呼ぶよ」
「ちゅーっ」
嬉しそうに、その場でバンザイの仕草をするちゅーちゃん。妙に可愛い。どうやら、俺はこのヘンテコな生き物を気に入ってしまったようだ。
「だけど……」
よくよく考えてみれば、２食分にしてはいなり寿司の量が少ない。
「ははぁ。お前。少し食べたな」
「ちゅ。ちゅちゅっ」
申し訳なさそうに、ちゅーちゃんはごめんなさい、と頭をぺこりと下げた。
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