煌々と月が照らす夜。
一人の少女が大きな鏡の前に立っていた。
鏡の下の方には「たまゆらの湯」とわずかに薄れかかった文字が描かれていた。
その鏡はアパートの玄関に姿見として備え付けられたものだった。
強化ガラスの玄関から差し込む月光にほのかに照らされた姿は、赤いドールドレスに身を包んだ、小柄な少女……正確にはローゼンドールに戻った真紅であった。
「さぁ、行くわよ。ホーリエ」
真紅はすぅ、と息を吸い込んだ。
あちらの世界の法則が、こちらの世界でも通用すれば、行けるはず。
真紅はそう思っていた。
彼女の人工精霊である赤い光点であるホーリエは、少し不安そうに真紅の頭上をくるくると回っていた。
それに付き添うように、もう一つの光点。
それは緑色で、スイドリーム、つまり翠星石の人工精霊であった。
その一見みすぼらしい、ところどころ裏の水銀が端で劣化してはげかかっているけれども、充分年季の入ったその鏡。
真紅はそこに身を投じた。
すると、鏡は突然光を放ち、真紅と、ホーリエ、そしてスイドリームを飲み込んだ。
後には、静寂と、なにごともなかったようにそのまま壁に掛けられている鏡があるだけだった。
広大な平原の上空を漂いながら、真紅はつぶやいた。
「問題は、どこにあるのかしら」
ここは翠星石の夢の中、のはずである。
というのも、あちらの生命の樹と世界樹のある世界とは、違った世界に居るのだから、当然、夢の世界というものも違っていておかしくはなかった。
……それにしても。
今まで実際に翠星石の夢の世界に入った経験はないのだから、ここはまさに虚実という言葉がぴったり当てはまるところ。
夢の世界の話でこの言葉も意味を持たないものではあるけれども、これが本当に翠星石の夢の中なのか、その真偽は定かではない。
定かでないにしても、あまりにもあちらの世界と同様に、一つの内世界がこうも立派に存在していることには、正直拍子抜けしていた真紅であった。
けれども、翠星石の夢の世界に入り込むことによって、なぜ翠星石が蒼星石を拒む理由を目撃できると確信していた。
「本当は招かれてもいないのに、いくら姉妹とはいえ、スイドリームに頼まれたとはいえ、他人の夢に無断で入り込むなんて我ながら最低ね」
半ば自省気味に再びつぶやきながら、眼下の広大な肥沃な平原を俯瞰する真紅。
でも、空は青く澄み渡り、時折柔らかなそよ風がすうっ、と一群の固まりとなって断続的に真紅の頬を心地よく撫でる。
空気はどこまでも清浄で、実に気持ちいい。
遠い山に囲まれ、眼下に広がる緑の絨毯は、そのままそこかしこの小さな丘陵地帯に繋がっていた。できれば、このまま緑の絨毯の上に降り立って、そのまま横になってまどろんでみたい……真紅はそう思った。
その夜、けっきょく真紅は何も見つけられずに、夜明けも近い午前５時過ぎに鏡から現れた。玄関から降り注いでいた月の光も、夜明けを迎える時刻になって弱まっていた。
玄関から続く廊下は、しん、と静まりかえっていた。
冷たい空気がひしひしと感じられた。断熱構造のこのアパートでも、さすがにここ数日の強い冷え込みでは、ぬくもりを保温しておくのにも限界があった。
「ふう」
真紅は、深いため息と共に自分が出てきた鏡を振り返った。
何でもこの鏡は、近所で開業していた歴史のある銭湯に使われていたものだそうだ。
数十年もの長い間、様々な女性達の姿を映し続けた大きな鏡。しかし、それも時代の流れから廃業に追いやられた銭湯の閉店によってその役割を終えた。
だが、縁あってこのアパートにやってきて、こうして姿見として復活している。
「確かに、これも公衆浴場で使われていただけに、丈夫で良いものね。だから、命を持っている……夢の世界への扉にふさわしいものだわ」
鏡には、ローゼンドールとして、真紅自身にとってオリジナルの姿の自分が映されている。あちらの世界でアリスゲームを戦ってきた頃と、まったく変わらない。そう。向こうの世界のジュンと一緒だった時とも。
じっ、としばらく鏡の中を見つめる真紅。そんな真紅を気遣うように、ホーリエはすう、すう、と下から上へと、何度も真紅の視界に入り込む。
スイドリームは、そんな二人の後ろで、少し意気消沈したかのように、その光を弱めていた。
「ありがとう……ホーリエ。もう、休みましょう。スイドリームもね。まだ、何もないと決まったわけではないわ」
そう促すと、真紅は音を立てないようにそっ、と自室に戻って、ドアを閉めて鍵をかけると、目を閉じて念じた。
すると、真紅の身体からローザミィスティカが浮かび上がるように現れて、それは実体化した。と同時に、自分の髪がふわり、と肩に掛かってくる感覚。真紅の身体はパジャマを着た、普通の人間の身体に戻っていた。
真紅は、浮かんでいるローザミィスティカを大切そうに指でつまむと、オルゴールの箱に入れた。この箱は、向こうの世界のジュンがプレゼントしてくれたもの。
こちらの世界にやってきた時、なぜか一緒にやってきていた品物の一つだった。
「ふぁぁ……ぁ。眠くなってきたわ。眠りの時間にしましょう」
人間の身体になったとたん、どっ、と疲労が生身の身体にのしかかってきた。
ベッドに横たわり、うとうとしているうちに、真紅は眠りに落ちた。
ホーリエとスイドリームも、ベッドのサイドテーブルの上に置かれたビロウドの宝石置きの上に落ち着いて、そのまま動かなくなった。
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