ちょっとだけ時間が進んで。
立冬を過ぎ、そろそろ朝晩は冬めいてきた、ある朝。
「真紅、行くわよー」
スノコが敷いてある、広い玄関で水銀燈が声を上げる。
ちょうど頼んでおいたタクシーが門の前に到着したところだ。
「真紅ちゃん、大丈夫かなぁ」
玄関から長い廊下につながっている上がり框に立ちながら、めぐが心配そうにつぶやく。少し冷えるので、ジーンズにシャツ、セーター、そして袢纏を着込んでいる。
「何いってるのよ。アンタだって、この前の帰り、疲れて熱出して一週間寝込んじゃったクセに」
水銀燈のあの心配は現実のものとなっていた。
やはり、まだ体力が充分についていないめぐにとって、あの事件はそうとう、体に「こたえて」いたようだった。
それに比べて、水銀燈の頑強さはやはり中途半端ではなく、今ではすっかりこのアパートの家長と化していた。
真紅、水銀燈、翠星石に雛苺、そしてめぐとオディールは不思議なことに、気が付いたらこの世界に人間として暮らしていた。
それは、うたた寝から始まった。
「……んっ？」
ふと、真紅が目覚めた時、そこはｎのフィールドではなかった。
暖かな陽光あふれる、どこかの部屋であった。
自分はテーブルに伏して、少し眠ったいた……らしい。
薔薇の花に「食べられ」ようとしていた鮮烈な記憶が一瞬、頭をよぎる……その記憶は、ただの悪夢ではなく、かつて自分が経験した体験そのものだった。
そのおぞましさに身を震わせると、改めて周囲を見渡した。
「どうして……ここは一体？ どこなの？」
雰囲気がジュンの家のリビングに似ている。
だけど、間違いなく空間はそれよりも遙かに広かった。
テーブルも大きい。遠い昔、王族や貴族の家に「滞在」していた頃を思い出す。
もちろん作りはそれよりも簡素で近代的だったが。
気がつくと傍らにもう一人、テーブルに伏しているたまま眠っている少女が。
「翠星石？」
真紅は驚きの声を上げた。
「ん……う〜ん……コンチクショー……ですぅ」
寝言をつぶやいている。
「ど、どうしたの？」
真紅は椅子から立ち上がろうとした。
おかしい。体が。妙に。
「これは一体」
つい、バランスを崩して転倒しそうになるのを、あわててテーブルに手をつき防いだ。
そして気づいた。自分の体が大きくなってしまっていることに。
「え！？」
手を見た。それは……人間の手。袖も見えた。いつものドレスじゃない。
「まさか」
着ていたのは、薄い赤の長袖のブラウス。それをまくり、肘を見た。
球体関節ではなかった。
そして。
真紅にしては珍しい、その悲鳴がリビングに木霊した。
それからいろいろとあって、今、真紅は心療内科に通っている。今日は診療日だ。
心療内科に通っているとはいえ、自分の場合はごく軽いものらしい。
かなり具合も良くなったのだが、まだ服薬する必要があるとの診断を受けている。ごく効き目の軽い薬なのだが。
でも、その薬をもらうには月に一度、医師の診察を受けなくてはならない。
それがどうにも鬱陶しい。
「ふう。全く困ったものだわ」
真紅はようやく出かける支度を調えたところだった。
美しいウェーブのかかった金髪を頭の上でまとめて、ニットの帽子をかぶり、ちょっとヨレたＧパンに地味な色のチェックシャツに灰色のセーター。
わざとだらしなく「着こなして」いた。
仕上げは、鏡を見て、憂鬱そうな表情を作ること。
メイクで顔は土気色、唇も生気のない薄いカラーで仕上げている。
……こうしないと、病院で浮いてしまうのだ。
何しろ、人間となってしまったとはいえ、ローゼンメイデンの第５ドールだったわけだから、その美貌とスタイルは常人離れしていた。
一度は何とか街にも出てみたのだが、何しろ次から次へとむくつけき男どもが声をかけてくるものだから、辟易してしまい、外に出なくなる。
そして何よりも、誇り高いローゼンドールから人間へと墜ちてしまった自分。
アリスゲームを事実上放棄したしまった自分に対する自責と嫌悪に苛まれる毎日。
知らず知らずのうちに心が風邪を引いてしまったのも、真紅の性格上、無理もなかった。
「真紅ぅ……いつまで待たせるのよ、もう。とっとと出てきなさいよぉ。全く」
遠くから、水銀燈の声が聞こえる。ふう、と再びため息をつくと、
「今行くわ」
と答える。
そしてタクシーは水銀燈と真紅を乗せて走り出した。
そのすがら、真紅はいつも通り道にある、とある屋敷をじっと車の中から見つめていた。
「真紅ぅ、いつもあんたあの家……」
通り過ぎ、後方に消えていく屋敷を軽く振り返って見ながら言葉を続けた。
「妙に気にしているみたいだけど、あの家、知ってるのぉ？」
真紅はぼそり、とつぶやくように答えた。
「知らないわ。ただ、気になるだけ。そう……妙に気になるわ」
「そんなの気のせいよ。まぁ、そりゃいつも……王侯貴族から始まって、裕福なところのミーディアムばかりだったアンタだから、今のアパートじゃちょっと物足りないでしょうけど、この世知辛い世の中、ちゃんと暮らせるだけでも幸せというものじゃなぁい？」
「そんなのじゃないわ」
軽口を叩きつつも、水銀燈は真紅の口調が少し変化したことを聞き逃さなかった。
「あら、そぉ……」
そのまま二人は、それ以上ひとこともしゃべらないまま、病院まで向かった。
＊
ちょうどそのお屋敷の中では。
「ジュン、今日はこのあたりでいいのかな」
蒼星石が例の剪定鋏を手に、珠理の父親に今日剪定する場所を聞いているところであった。
彼の名は樫 ジュン。つまり珠理の父であり、かつ人形師。マエストロであった。
広大な庭を望む広い縁側には、珠理と水晶が並んで腰掛けていた。
「水晶ちゃん、お茶どうぞ」
そこへ、ジュンの妻である樫 巴が、お茶とお茶菓子を乗せた和盆を手に現れた。こちらの世界では、ジュンは巴と結婚していた。
「あ、ママ。わたし、持つから」
珠理が立ち上がって、盆を受け取る。
「ありがと。蒼星石ちゃんの分は、後で持ってくるわね」
「いただきます」
水晶は早速頂くことにした。
少し熱めのお茶が美味しい季節になった。
香りも良く、心地よい苦みの中にコクと清涼感がしっかりしている、いいお茶だった。
「おいしいです」
水晶のほめ言葉に、巴は少し微笑んで、静かに
「ありがとう」と答えた。何となく寡黙なところは、向こうの世界の巴と同じだった。
「ママの入れるお茶は美味しいのよ。料理だって、あ……ゴメン。水晶には」
珠理が自慢そうに、だけど途中で申し訳なさそうになり、いった。
「いいのよ。わたしは元々ドールなんだし、母親は初めからいなかったから。でも、お母さん、ってどんな感じなのかしら？ わたし、ずっと父と二人きりだったし」
確かに、薔薇乙女、そして水晶……ドール達は母親というものを知らない。
強いて言えば自分達のマエストロが父親であり、母親でもあるわけだが。
＊
それじゃ、ここからまた、わたしの語りに変更（水晶）
「まぁ、わたしの場合、パパとママの共作だから、こういうことになっちゃっているんだけどね」
珠理は足を上げて縁側の床に体操座りになって言った。
この日、珠理は長袖シャツにキュロットスカート＋オーバーニーソックス。
小柄でしなやかな樹理の体に似合っている。
形の良い足をさすりながら続ける……あの傷は、修復してもらってすっかり癒えている。
「わたしの本体を作ったのは、パパ。で、わたしのこの足、手、関節部分を作ったのはママ。それで二人のマエストロに恵まれちゃったんだけど」
何でも、ジュンはローゼンの弟子の一人で、それもかなり高位の弟子であったが、ローゼンよりローザミィスティカを授けられる時、最も強くそれを拒んだらしい。
しかし、ジュンにとってローザミィスティカは宿命的なものであり、最終的にローザミィスティカを譲り受けたものの、長らくそれを使おうとはしなかった。
そこに転機が訪れたのは、巴さん、つまり珠理のお母さんを伴侶に得たことによるもので、そのときに始めてローザミィスティカを自分の作品に使うことを決意したのだそうだ。
珠理のお母さんは、若くして医科高分子工学の天才とうたわれた才女だった。
彼女が、ジュン、つまり珠理のお父さんと巡り会うことによって、彼女が試そうとしつつも、機会に恵まれず、密かに隠し持っていた技術を使う素材を得た。
その結晶が珠理ということらしい。
つまり、珠理はいにしえのローゼン派とでもいうべき「生きた」ドール作りの秘法と、現代の最先端科学が融合してできあがった、新しいタイプのドール、となるわけかしら……。
珠理の体の基本構造は、わたしたちと同じ。
これは、彼女の父が制作した。
でも、わたしたちの特徴である球体関節、その部分は彼女の母の技術、新陳代謝機能を備えた高分子機能材料によって、機能的に人間の関節と比べ、全く遜色のない……いや、むしろ一部の領域では人間以上の機能を持つ画期的なものに入れ替わっているそうだ。
それにしても。
このジュン達も、あちらの世界からやってきたのだろうか？
それを確かめたいと思った。
でも、下手に聞いては失礼にあたるかも知れないし、せっかくのこの場の雰囲気を壊してしまいかねない。わたしは、それを胸の奥に押し込めた。
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