再びバスルーム。
「今夜は、桑田さんの家にお呼ばれなのよね、ジュンくん」
寂しそうに回想を終えた、のりがつぶやいた。
「でも。お姉ちゃん、あの娘はちょっと……ねぇ？ わたしは、巴ちゃんがぴったりだと思っていたのに」
それは、由奈が桜田家に遊びに来た時。
つまりジュンの部屋にやってきた時のことだった。
確かに丁寧な物腰で、のりの事を「お姉様」と呼んだ由奈ではあったが。どうにも、しっくりこないものを感じていた。妙によそよそしいというか、仮面をかぶっているというか……。
のりはふう、とため息をついた。
と。
見ると、浴室の窓から大きな流れ星が。
それは、いつかの赤い流れ星ではなくて、もっと大きく立派な、輝く光球だった。
色は、琥珀色。
「あっ。流れ星。ジュンくんがあの女に騙されないように、騙されないようにっ」
つい、のりは本音で思っていること、そして願い事を口にした。
以前のホーリエ……赤い星は、のりから逃げるように浴室から屋内へと逃れてしまい、のりは部活で使っているラケットを手に追いかけたものだったが、今度は違っていた。
その星は人工精霊だった。
パルファムと呼ばれていた。
珠理の父親であり、マエストロでもある、あちらの世界に住むジュンの人工精霊である。
パルファムはのりの前に静止すると、その光をより強くした。まるでのり自身を照らし出すかのように。
すると。
「もう、風呂から上がらないと。ジュンくんが帰ってくる……」
のりはパルファムの光にうながされるように、風呂から上がった。
風呂上がりの牛乳を一気飲みして、のどごしの感触を味わうと、のりはパジャマの上にカーディガン、そしてエプロンを着けると。
「よーし。お姉ちゃん、頑張って夜食作っちゃうぞ」と、台所に立った。
それを見届けると、パルファムはすうと、いつしか虚空に消えた。
それに合わせて、玄関の方からなにやら気配。
次いでカチャカチャ、と慌てて鍵を開ける音が聞こえてきて、ドタドタと足音。
そしてジュンが息せき切らせて飛び込んできた。由奈の家から帰ってきたのだ。
「ただいま！ 姉ちゃん、悪いんだけど夜食用意して。今から徹夜になりそうだから」
「はいはい。ちゃんと準備してるわ」
「サンキュー」
なぜか息もピッタリの会話で、いうか言わないかもどかしげに、ジュンはよそ行きの服のまま、二階の自分の部屋へと駆け上がった。
そして、本棚から何冊かのソーイングの手引き書を抜き出し、パラパラと目にも止まらぬ速さでめくって中身を確認し、それから秘密の創作ノートのメモをいくつか確かめると、
「よし」
仕立て台を取り出して、まるで何かに取り憑かれたように、洋裁鋏を縦横無尽に走らせて、型紙を作り始めた。
一見、メチャクチャに見える速さと思い切りの良さだったが、それらはいずれも正確かつ、繊細かつ適切なものであった。
のりが腹もたれの少ない夜食の下ごしらえをしつつ、とりあえず温かな飲み物を用意していると。
インターフォンが鳴った。
「はぁい」のりは来訪者をドアホンに備え付けのモニターで確認すると、思わず歓待の声を上げた。
「あらあらぁ」
来訪者は巴だった。さっそく上がってもらう。
何しろ今夜は冷えるので、巴は毛糸の帽子にマフラー、厚手のコート、そしてカラータイツと重装備だった。そして手に、大切そうに風呂敷を抱えていた。
「さぁどうぞどうぞ。上がって上がって」
「はい。おじゃまします」
巴はていねいにコートと帽子、マフラーを畳むと、持参の白いおろしたてのソックスをタイツの上からはいて、三つ折りにした。
小豆色のトックリセーターに赤いチェックの膝上スカートと、地味な格好だったが、似合っていた。
とにかく、しっかりした娘だった。
「これを、届けに来たんです」
そう言いながら風呂敷から取り出しのは、二つの反物だった。
一つは落ち着いた朱色の地に、紅薔薇が見事に咲き誇っているもの、もう一つは薄い桃色地に蔓苺をあしらったものだった。
「まぁ。きれい。そして、かわいい」
思わず、のりが歓声を上げる。
それに呼応して、巴がにこり、と微笑んだ。
「で、これを？」
「ええ。桜田君に仕立ててもらおうと思って」
あら、ありがとう、と言いかけて、のりは口ごもってしまった。
「でも……ジュンくんはいま」
あまりにも目に鮮やかな反物の柄に刺激を受け、のりはふっ、と我に返っていた。
どうして、夜食なんか用意したのかしら。それに、なぜジュンくんが突然帰って来たの……？
疑問が沸き上がった。
それに、これだけの反物ならかなりの金額だろう。それをあっさりとジュンくんに任せるなんて。
とまどい始めたのりに気づいた巴は、つぶやいた。
「光……」
「えっ」
「お姉さんのところにも光が来ませんでしたか？ わたしのところにも……そして、今すぐこの反物を届けてほしい、そうしたら、ジュン君が一晩で仕立ててくれるって」
のりは驚いた。あの光は一体？
そう。あの光がジュンがもうじき帰ってくる、そして振り袖を二つ、今夜中に仕上げると。だから姉として、サポートして欲しいと。
そう自分の心にささやいたのを思い出したのだ。
それは、光、パルファムがあるじから言いつけられた仕事であった。
「桜田君？ 入っていいかしら」
のりに付き添われて、巴は反物を手に、ジュンの部屋をノックした。
「ああ。巴か。待ってた。入れよ」
中では、もうジュンが、ほとんど型紙作りを終えかかっていた。
「もう、こんなところまで。素晴らしい腕ね」
巴が感心する。
「ああ。ぼくもなんだかわからないうちに、ここまで作ってしまった。どうしてだろ？ 和服なんて興味なかったのに。それも、サイズも自然に頭に浮かんでる。二人分だ」
喋りながらも、手は動かし続けている。正確な動きを保ったままだ。
「それは、あの不思議な光のちからなのかも」
「光？ ああ、ぼくのところにもやってきて、そう……」
そこで突然、ジュンはその手を止めた。
そして、立ち仕事を止めると、その場にがっくりと膝を落とした。
「ぼくは、大変なことを忘れていたらしい。いや、忘れさせられたんだ。そう。ぼくには、忘れてはいけないあいつがいるってことを。畜生」
そう。ジュンは思い出したのだ。
真紅と雛苺たちのことを。そして、ドールたちとの生活、今までの経緯のほとんどを思い出した。
あの光は、真紅たちが別の世界で無事に暮らしていることを教えてくれた。
ただ、あちらの世界では真紅は落ち込んでいるらしい。
ぼくは悔しいけど、その世界には行けない。そんなぼくができることといったら。
「よし。巴、反物かして」
「はい」
巴が反物をジュンに手渡す。
ジュンはしっかりとそれを受け取ると、立ち上がって再び仕立て作業に入った。
そんなジュンを、巴は邪魔にならないように見守っていた。
開いたままのドアからいつの間にかとのりは黙って、そっ、とそんなふたりのやりとりを見ていた。
のりは、巴の頬がちょっぴり紅潮しているのを見逃さなかった。
もう、反物の値段のことなどどうでも良くなった。
ふたりのために、まず飲み物を持ってこよう。
そして、わたしは下でゆっくりと夜食の下ごしらえをして、それが済んだら暇つぶしでもしながら、夜食のタイミングを計ろう。
暇つぶしの種は読書にしよう。そういえば、読みかけの本が何冊かあったわ。
今夜は夜なべだ。でも、明日はお休みだから、平気。
（そういえば、昔、わたしたちがまだちっちゃかった頃、巴ちゃんがうちにお泊まりで遊びに来たことがあったっけ）
（うふふ。なんだか、楽しくなって来ちゃった）
のりはそう思うと、階下に降りていった。
|
