厚みはざっと、１０センチは優に超えている。
「えーっ」
その場に立ったまま、わざと不躾に応対していたジュンは、度肝を抜かれて思わずテーブルについた。
「あら？ 参考書にしたらせいぜい５、６冊分よ。大した量ではないわよ」
そして、その書類の束を手にすると、パラパラとめくってみた。
「これは……」
きれいにパソコンで作られ、プリントアウトされたそれは、下手な参考書よりも構成が良さそうで……レイアウトが丁寧でしっかりしているように見えた。
「まぁ、わたしなりに工夫したものだけどね。もちろん、カナとの合作よ」
「かしらー」
誇らしげにうなずく金糸雀。
「人形の作ったものなんて、信用できるかよ」
「あら、失礼ね。金糸雀は最高の先生よ。このわたしから見ても、金糸雀以上に人にものを教えることが上手な人は見たことがないくらいだから」
みつがあまりにも自信ありげに言ったので、ついジュンの悪いクセが。
「そんなに立派なことを言うなら、最終学歴は何だよ」
「Ｔ大よ」
聞く方も恥ずかしい、聞いている本人のことを棚上げにした、イヤミで意地悪な質問にさらりと言ってのけるみつ。
「嘘付け」
しかし、事実なのだから全く動じないみつ。
「ええーっ！ あのＴ大！？ 草笛さんって、エリートだったのねぇ」
素直にのりが驚いた。
Ｔ大といえば、この世界で、読者の皆さんがこの話を読んでいる世界でいうところの東京大学に相当するエリート大学である。
鼻白むジュンは、姉ちゃんはすぐ騙されるんだよな……と思った。
「だったら、凡才じゃないじゃん。矛盾してる」
「どんな大学を出ていても、凡才は凡才なのよ。そういうなら、今の偉い官僚連中や企業のトップ達を見てみたら？
彼らは、わたしの先輩でもあるけれど……その彼らが社会の公器としての、国や企業の責任者として、賢く正しいことをしているかどうか？
疑問よね。学校の成績と才能とは、別のところにあるのよ。残念だけど」
「屁理屈ばかり言って」
「屁理屈いっているのはジュン君じゃないのかな？」
切り返すみつ。
「ぐっ」
とにかく、口では勝てないのは確かだな……と思ったジュン。
「だけど、どうしてわざわざこんなことを、ぼくにしてくれるんだよ。こんなことしたって、何の得にもならないじゃないか」
おきまりのひねくれたセリフ。
「そこなのよ」
待ってましたとばかりに、みつは、やおらその場に立ち上がると、一気にしゃべり始めた。
「あんなことがあってから、わたしなりに考えたの。どうしてわたしとカナだけが残されたのかな、って。単に幸運だったから？ それは違う。金糸雀は他の姉妹を全て失った。幸運とはいえないわ。わたしたちがこの世界に残る理由が？ どうやらここに答えがありそうだな、そう考えたの。
もしこのまま、わたしとカナが自分達の世界に閉じこもって、そのまま終わってしまったら、いずれわたしは死ぬ。そして金糸雀はまた独りぼっち。
アリスゲームも無くなってしまったこの世界で、金糸雀は、やがてモノとして朽ち果ててしまうまで、新しいマスターと出会い、そして別れるだけの人生。それに何の意味が？ ただ生きながらえるだけがレーゾン・デートルだなんて空しすぎる。そう思ったの。
だから、わたしは思った。まず、世界を広げよ」
そこで、出された紅茶を一口すすると、みつは続けた。
「真の友をもてないのはまったく惨めな孤独である。友人が無ければ世界は荒野に過ぎない。……ベーコンの言葉。まさにこれよ。そう、今までドールとマスターだけの関係のみしか眼中になかっただけのわたしに、思考的転機が訪れたの」
「はぁ」
「はい」
突然、一気にまくし立てられてジュンものりも、圧倒され、ただ畏れ入って聞き入るだけだった。
「つまり、マスター、即ちミーディアム同士の交流と結束が、この閉鎖的状況を打破する一番の解決策であると……」
弁舌に熱がいよいよこもり始めたところで、金糸雀が立ち上がると、みつの裾を引っ張る。
「みっちゃん、熱くなり過ぎかしらぁ」
「はっ……」
不意に金糸雀から軽くブレーキをかけられたみつは、ポッと頬を赤らめ、急にもじもじし始めると、さっきまでの勢いはどこへやら。
その場に大人しく座り込むと、ぼそっ、とつぶやいた。
「わたしったら……つい、熱くなって。学生時代の討論のクセが出てしまって……ゴメンね」
あ、可愛い。
つい、そんなみつを見て、ジュンとのりは思ってしまった。
が、ジュンはあわててそれを打ち消し、のりは気づかないふりをした。
「ミーディアム同士の連帯もいいけど、もう真紅はいないんだし、ぼくはミーディアムじゃない。ほら、指輪もないし」
ジュンは左手を見せた。
確かに、真紅が契約を解除したとおり指輪は無くなって、薬指に白い跡があるだけだった。実は真紅との絆自体は、あの振り袖を真紅に送ったことからも、切れてはいなかったのだが、ジュンはまだ、それを隠すことにした。
まだ、自分を取り巻く不思議な世界の状況がハッキリと見えていない今、慎重にならざるを得ない。
「ふうん……確かにそうだよね。でも、そう簡単に一度できた絆は切れたりしないとわたしは思うの」
みつはなんとなく、ジュンの言葉の中に真実でないものを感じ取っていた。
けれども、詮索するのは止めた。
今日は、そろそろ頃合いかな、と思った。
「それじゃ、そろそろ失礼するわ。まーとにかく、このテキストは置いておくからいっぺん目を通してみてね」
みつは、そそくさと帰り支度を始めた。
「ちゃーんと目を通すカシラ」
金糸雀も念を押してきた。
「ふん。こんなものいらないから持って帰れよ」
テキストを持って、突っ返そうとするジュンに、のりは横からテキストをつかみ取ると、申し訳なさそうに言った。
「とりあえず、せっかくのご厚意ですからこれはお預かりします。後でちゃんとお返ししますから」
さすがにこれだけのテキストをわざわざ、自分の弟のために持ってきてくれたのに、無下に返すのはさすがに失礼だと、のりは思った。
「それでは、お姉様、失礼します。ジュンジュン、またね」
「またねかしらー」
そう言うと、二人はおいとましていった。見事な引き際である。
ジュンとのりは玄関先までしっかりと見送った。
「やれやれ。また来るんだろうなぁ……とんだお節介だな」
ジュンはそう憎まれ口を叩きつつも、ちょっぴりだけ、心の中に何か暖かいものを感じていた……ただ、素直になれないだけだったのだ。
「あら？ 桜田くん、これ何？」
「ああ。それ、金糸雀のマスター、草笛さんが置いていったものだけど」
しばらくして、入れ替わるように家庭教師として柏葉家を訪問した巴が、応接スペースのテーブルの上に置かれたみつと金糸雀のテキストを手にとって聞いてきた。
「ふうん」
パラパラとしばらく目を通す。
初めは何となく……だが、次第に熱心に読み始め、いつしか没頭している。
「おいおい、そんなもの、なに真剣になって……」
ジュンが巴にお茶を運んできながらも、茶茶を入れると、巴はそれを遮った。幼なじみなので遠慮はない。
「桜田くん。ちょっと黙ってて」
「……ああ。ごめん」
いつになく真剣な巴の様子に、ジュンは詫びた。
（どうしたんだろう……？）
ちなみに、勉強会は２階のジュンの個室で二人きりではなく、１階の居間の応接セットで、のりが隣のカウンターキッチンで夕食の支度に勤しむのを横に、二人が向き合う形で行われていた。
思春期の入り口にさしかかり、既にお互いに男女を意識し合う年頃であったけれど、姉の目を盗んで二人きりで逢い引きを楽しむように勉強するほど余裕も無かったし、何よりもジュン自身がそういうのが苦手というか、妙にこそばゆく、けっきょく姉も一緒にいるこの居間を教室にしているのであった。
しばらくして一通り目を通し終わると、巴はふーっ、とため息をつき、そして安堵したように言った。
「桜田くん、さっそく今日からこのテキストで勉強しよう。このテキストなら……たぶん、学年上位を狙えるわ」
「えっ！？」
驚いた。
「いくらなんでもそれはないだろ、そもそも人形の作った変なものだし」
金糸雀を見くびっているジュンであった。
「ふうん……人形って、ああ、金糸雀ちゃんが作ったのね。まさか、あの子にこんな特技があったなんて。これなら、わたしにも参考になるわ」
「ホントかよ」
尚も疑り深いジュンに釘を刺す、幼馴染み。
「桜田くん」
巴は真剣だった。
「う、うん」
思わず従うジュン。小さい時から、二人はこうだった。
こうなると、ジュンは逆らえない。
それから、そのテキストを使っての勉強が始まった。
|
