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そして開かれる道 ページ4
 それから、蒼星石はかつてのマスター、つまりミーディアムだった老人に会った。
 この小旅行のそもそもの目的は、そこにあった。
 意固地で意地っ張りなところがある蒼星石であったが、心根は優しかった。
 実は、新しい世界で新しい暮らしをする中で一番気がかりだったのは、元の世界のミーディアムのことだった。
 老人はたいそう喜んで蒼星石の無事を喜び、再会を歓迎した。
 そうして、久しぶりに2日ほど老人宅で親交を得ると、再びの訪問を約束して、置き忘れていたトランクを手にして老人宅を後にした。
 暖かな気持ちに包まれた蒼星石。
 この小旅行を蒼星石に決意させたのは、例の事件で警察に補導されて保護されたことがきっかけであった。

 話は少し過去に遡る。

 オディールは保護されてから、極端に怯えていた。
「こんなところ……わたし、嫌」
 それはオディールがごく小さい頃ながらも、娼婦であった過去からすると、むべなるかな、であった。
 この国では売春は違法であるし、オディールもそれを知っていたからだ。
 実際にはそれは全くの杞憂に過ぎなかったのだが、彼女はもしや自分の過去を暴かれて、それが断罪されるのではないかと気が気ではなかった。
 一方、蒼星石はその事情を知らない。けれども、そんなオディールを見て励まさずにはいられなかった。
「大丈夫。僕たち、何も悪いことはしていないんだから、胸を張って」
 そう励ましつつも、蒼星石はオディールから、不思議なことに懐かしい何かを感じていた。

 前にも触れたことがあるが、かつて蒼星石はジャックリッパーに正義の鉄槌を下したことがあった。
 時代は退廃した19世紀のロンドン。
 その時のマスターは優しい女であったが、二つの顔を持っていた。
 表の顔は伯爵夫人。しかし、裏の顔は売春宿のオーナーであった。
 そもそも、蒼星石それに翠星石の姉妹のマスターとして選ばれる者は、蒼星石と翠星石が背負っている出生からの宿命を反映して、何らかの二面性を背負っている場合が多かった。
 薔薇乙女のマスターとなるためには資格が必要で、その一つにマスター自身も異性の体を知らないこと……即ち女性であるのならば処女であるべき、との暗黙の決まりがあり、彼女も例外ではなかった。
 それは、彼女がもともと「膣」の無い体であったからだ。
 一種の奇形とも推察できるが、詳細は今となっては過去の闇の中である。
 純潔と貞操が単に肉体の状態で決定されるのだとしたら、それは誠に陳腐な話ではあるが、少なくとも彼女はその条件を満たしていた。

 伯爵家と名乗っていても、現実にはその台所は火の車、というところが少なくなかった。なので、さまざまなサイドビジネスが横行していた。
 彼女の場合、それが売春宿の経営であった。
 とはいえ、農村から売られてきたり、街の貧困層から、少女が強制的に体を売ることを強要され、劣悪な生活環境に置かれる、といった経営は好まなかった。
 あくまでも体を売って生計を立てたい者ばかりを集めて、そうでない者は下働きや庶務作業をさせるという、民主的というか、共同生活集団としての運用を心がけていた。
 確かに売春は悪とされる。
 しかし、現実には男なしではいられない達の者もおり、また、一人の男に縛られずに自由に男性との逢い引きを楽しみたい者もいた。
 また、売春に頼る以外、女性の肌の温もりと柔らかさを得ることができない男たちもいるのである。

 例としては江戸自体の郭みたいなもので、客はそもそも疑似恋愛を楽しみに来るもので、単純な性欲による肉体的な疼きを取り去る単純な場所ではない。
 そのように彼女は自分の娼館を定め、運営していた。
 彼女の経営する娼館のルールを説明しよう。

 まず初めは、娼館とは思えぬほど清潔て質素ながらもしっかりした造りの、彼女が借り受けた屋敷で、その一部屋とか、外の広い庭園で文字通り談笑したりする程度である。
 そして、そこで娼婦に気に入られて始めて次の逢い引きが許され、だいたい三度目で目的を果たすのが普通だった。
 もちろん、無理に肉体関係を結ぶ必要もない。
 娼婦たちも充分な食事と健康管理、適正な労働時間と見合った給金を得て、不満を持つ者はいなかった。
 そんなマスターに対して、蒼星石は確かに不純なものを感じつつも、悪くは思っていなかった。対して、翠星石は嫌悪感をあらわにしていたが、マスターも心得たもので裏の顔は全く二人に見せなかったので、日常生活においては全く不快なことも不自由なこともなかった。
 とりたててアリスゲームも無く、快適に人形としての生活を送っていた二人であったが、薔薇乙女達のマスターには何かしらの試練が訪れるのも、また宿命であった。

 街では不思議な性癖の変質者が現れ、人々を脅かし始めた。
 極端なサディストで、かつ死体愛好家、そして変態性欲に取り憑かれたその男は、通常の手段では性的満足を得られなかった。
 相手の腹部に傷を付け、その血を陰部に塗りたくった状態でないと達しないのであった。初めのうちは、ごくかすかな血で満足していたが、徐々にそれはエスカレートしていき、遂にかなりの傷と大量の血を用いないことには何とも行かぬところまで来てしまったのだ。
 そうなると、相手の娼婦もそれを拒むようになる。
 そして、それがもし娼婦の間で噂になったら……男はそれを恐れて、娼婦の腹を刃物で引き裂いて殺した。そして、その後に血の海の中で果てた。それはめくるめく初めての強烈な体験であり、魅惑の刺激となって男を魅了した。
 かくして、歓迎されないジャックリッパーの誕生と相成った。
 慎重に犯行を重ねる中、男は膣無し女の噂を聞きつける。
 それは、まさしく蒼星石のマスターのことであった。

 自身の手によって、膣のない女に自らの刃で体を裂き、膣を形作る。そして男の経験がないそれを犯し、行為し、欲情を満たす……。
 執着的な探索によって、男はやがて彼女がその女であることを突き止めた。そして、彼女の経営する娼館の娼婦の一人をまんまと連れ出し、人質にした。
 解放条件は、伯爵夫人が出向いて自分の生け贄になること。
 もちろん、無視すれば娼婦を殺し、伯爵夫人の裏の顔を全てを白日の下に晒す、と。
 これに対し、蒼星石と翠星石のマスターは、あえて男の待つ安宿へと向かった。
 べつだん伯爵夫人が娼館を経営していることなど、珍しくもなかったので大したことはなかったが、娼婦の命は大切であった。
 自分の命を、娼館の娼婦のために投げ出す覚悟で。
 それを知った蒼星石は黙ってはいなかった。
 マスターに自分が隠れた自分の薔薇の鞄を持たせて、現場に向かう。
 そうして、蒼星石はその庭師の鋏を人間に初めて向けようとした。
 ジャックリッパーはあざ笑い、返り討ちにしようとした。
 しかし、アリスゲームで鍛え抜かれた蒼星石。神聖な鋏を使うまでもない。彼女のシルクハットは、ジャックリッパーのナイフよりも遙かに鋭く、素早く、相手の胸を抉った。

 とどめをさす暇もなく、いや、伯爵夫人が蒼星石に殺人を犯させまいとして、捉えられていた娼婦と共に蒼星石を抱えてその場を直ちに立ち去ったので、その後、ジャックリッパーがどうなったのかは、当時の蒼星石は知らない。
 本当にどうなったかは、かつてのエピソードの中で、白崎が歌った通りである。

 そんな経験の中から、なんとなく蒼星石はオディールにかつて自分が出会った娼婦達に似たものを感じていた。
(もしかしたら、この娘は過去に何かそういったことに手を染めていたのかも知れないな……)
 大胆ながら、的確で鋭い推理をする蒼星石。
 ただ、そういう過去を持っているだけに、蒼星石は形だけの貞操というものの無意味さをよく知っていた。だから、オディールに対して無責任で身勝手な決めつけはしなかった。
 オディールの過去に何かあったにせよ、勘によってそれが世間一般でいうところのふしだらなものであったとしても、今のオディールは少なくとも貞操を取り戻している……そう確信できた。

 二人の相手をしたのは、初老の元警察官であった。
 元ベテランで、定年退職後、指導員としてこういった青少年の補導後のケアをしているのであった。
 もう退職して、ノルマとも無縁であるだけに、現職の警官にありがちなギラギラしたところもなく、ごく穏やかに二人に接してきた。
「実は、わたしも若い頃にはいろいろあってね……」
 無理に聞かせる様子もなく、まるで独り言を言うように優しい口調で喋り始めた初老の男。
「生まれはごく普通のサラリーマンの家庭でね。だけど、小さい時から残酷な癖があってね。よく昆虫や動物を捕まえては、ナイフで切り裂いて楽しんだりしたものだったよ」
 そんな人が警察官になるなんて? とオディールは違和感を覚えつつも、生まれ育ちに自分と同じく陰を持った様子のその男の言葉に、引き込まれていった。
「だけどね、そんなことを繰り返しているうちに、妙な夢を見るようになった。それは……自分がちょっと古い時代の外国のどこかで、次から次へと女の人を殺してね、そしてナイフで切り刻むというものだったよ」
(え?)
 蒼星石は思った。
 男は、話を続けながらもオディールと蒼星石の目を時折、揺らぎのない眼差しでしっかり見つめてきた。
「それは、いつしか悪夢となってわたしを苦しめた。最後には、自分が殺す側ではなく、殺される側になっていって……最後には、ほら」
 そう言うと、開襟シャツの衿を少しだけめくって見せた。
 そこには、ハッキリと大きな何かの刃物で傷つけられた傷跡の一部が見て取れた。
 思わず驚いてその傷跡を見つめるオディールと蒼星石。
「こんな傷が本当にできてしまった。だから、すぐ病院に担ぎ込まれたものの、そりゃもう死にかかったよ。でも、その中で何回もわたしは殺してしまった生き物たち、そして夢の中で殺していた女性達にひたすら謝った。……そのおかげか、命は助かってね。それ以来、殺生はほとんどできなくなってしまったんだよ」
「そうなんですか」
 思わず、オディールと蒼星石は二人揃って声を合わせて、かすかな同情と驚きの中、素直にうなずいた。
 それを認めると、初老の男の目の奥に隠れていた鋭い眼光は、ふっ、と消え失せた。
「ああ。つまらない話をしてしまったね。で、何か人の役に立てないものかと思って、警察官になったんだよ」

 なぜ、こんな話をしてくるのだろうか? とオディールは思った。
 実は、これがこの初老の元警察官の仕事であった。
 このようにして、本当にこの二人が法に触れたり、人の道を踏み外していないかどうかを見極めていたのだった。結果は、シロそのものだった。
 うすうす蒼星石はそれに気づいていた。それよりも、このおじさんの過去が妙に気になる。
「その話……失礼ですが、本当なんですか」
 思わず質問する。
 すると、男はにこり、と笑うと言った。
「いや。じつはこの傷はとある凶悪犯ともみ合った時にできた傷でね。今の話は作り話。すまなかったね、変な話をして」
「いえ、いいんです」
「……まぁ、君たちも家族がいるし、あまり心配をかけないようにね。それに、家族以外にもいろいろと心配してくれる人もいるだろうから、そんな人たちも大切にしてあげてね。おじさんのお願いはそれだけだから」
「はい」
 二人はうなずいた。

 それから槐や巴たちが迎えにやってきて、無事帰ることが許され、警察を後にする時、蒼星石は気になっていたことを一人の警察官に尋ねた。
「さっき、僕……いえ、わたしたちに話をしてくれたおじさんの胸の傷って、その、仕事で……だったんでしょうか?」
 聞かれた警察官は首をかしげながら答えた。
「いや。元警部はお腹だったはずだよ。胸の傷を見せてくれたの? そう。あの傷は誰にも見せようとしないし、その言われも誰も知らないはずなんだがねぇ。それが?」
 それで蒼星石は納得した。
「いえ。ありがとうございました」

 その晩、蒼星石は寝る前に、部屋にやってきた水晶にこのことを話した。奇妙な邂逅に巡り会ったことを。
 水晶は少し驚くと、すぐに深く考え込んで、考え終わると、何かに心を打たれたようにつぶやいた。
「世の中って、やっぱりどこかでお互いに繋がっているのね」
「うん。わたしもビックリしたわ。あのジャックリッパーが転生して罪を償っていて、再び巡り会うことになるなんて」
 蒼星石は水晶の前では、最近ではすっかり女の子の言葉になっている。
 感慨にふけりつつも、蒼星石には一つの事柄が、徐々に心の中で重みを増してくるのを感じ取っていた。
「わたしの元マスターは、どうしているのかな」
 その重みが何であるかを言葉にした蒼星石。
「そうね。蒼星石にはマスターがいてくれたのよね」
 うなずく水晶。
「……会いたいな」
 ぽつりと、蒼星石はつぶやくのだった。

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