朝がやってきた。
昨晩は早く床についたためか、蒼星石は早朝に目覚めた。
時計を見ると、まだ５時を過ぎた頃。
疲れは充分に取れているし、眠くもない。
起き上がって窓のカーテンを開けると、さわやかな晴れ渡った青空が広がり、それは遠い山々まで連なっていた。
「うーん」
伸びをすると、蒼星石はいいことを思いついた。
トランクに乗り、山々の方へと飛んでいく。
眼下に広がる街景色は妙に平たく目に映る。道にはまだ車は少なく、人々もまだ寝入っているようであった。ぐんぐんと速度を上げて、山の上に差しかかる。
今度は起伏を持った山並みが、下から迫ってくるようだった。朝の冷気が心地よく蒼星石の頬をくすぐった。
伴ったレンピカも、爽快感を満喫している様子だった。
もともと庭師であるため、朝が早い蒼星石であったが、実際こんなに快晴の朝は珍しかった。山並みはさらに奥へと続いていて、その標高はさらに高くなっている様子だった。その奥まで行ってみたい気もしたが、とりあえず引き返すことにした。
もちろんそんな蒼星石の姿は、人の目に映ることはないよう、レンピカの力で仕掛けがなされていた。
自室へと戻ると、再び温泉に向かう。
今度は早朝だったせいか、何人かの老人と一緒だった。
なぜか蒼星石は老人と話が合う。この温泉の効能やら、この近くの名所のことや名刹の話題で花が咲く。気をよくした老人は蒼星石に尋ねた。
「いいお嬢さんだわね……ところで、どちらからお越しで」
「ええ……」
そこでジュンの住んでいる街の住所を伝えた。
その日、ジュンは登校して自分のクラス、そして自分の机につくまでの間、奇妙な視線に晒されているのを、繊細な持ち前の感性で感じ取っていた。
それは、好奇と畏怖、それにちょっぴり羨望が入り交じったものであった。
おや、何だろう、と思っていると。
「おはよう。桜田くん」
夏服になった巴が声をかけてきた。相変わらず寡黙なタイプの美少女である。
「あ、おはよう」
ちょっと戸惑ったように挨拶を返す。
その様子を敏感に感じ取った幼なじみ。ジュンの心境をすぐに察すると言った。
「桜田くん、まだ見てないの？」
「え、何」
「今日は中間テストの発表の日よ」
そういえば、そうだったな……とジュンは思った。でも、いつも成績は芳しくなかったから……ああそうか、もしかしたら自分の成績が悪くて、それがどこかから漏れたのかも……と、またもひねくれたことを考える。
「そう」
「いいわ。一緒に行きましょう」
「いいよ。どうせ……」
そういうジュンに、巴はため息をつくと、少し考えてから思い切ってジュンの腕を掴むと、引っ張る。
「おっとと。なんだ強引だな……巴。わかったよ」
武道をやっているだけあって、思わずジュンは席を立つ格好になり、そのまま巴の後に付いていった。
校内掲示板の前には、人だかり。
ジュンは、一瞬、過去のトラウマが呼び覚まされたのか、軽いめまいと吐き気を覚えた。しかし、真紅のことをわざと思い出してそれを抑えた。
群衆はジュンが巴と共にこちらに向かってくるのを認めると、さらにざわめきを増した。ジュンは気が重くなった。こういうのは苦手だ。
「おい」
「あの二人が？」
「へえ」
「まぐれだろ」
「もう一人は確か……ドレスの子？」
いろいろな雑音が耳に入ってくる。もうジュンの頭の中では、真紅にお茶を入れて、ぬるいと怒られた思い出をリフレインさせっ放しだ。そうでもしないと耐えられない。
でも、近づくにつれて学生たちは二人の通り道を開ける。
そして、ついに掲示板の前にやってきた。
そこに張り出されていたのは、各学年の上位成績者２０名一覧であった。
「え？ 嘘だろ……」
ジュンはそれを見て、思わずつぶやいた。
一位の欄に「柏葉 巴」、そして二位の欄に「桜田ジュン」と書いてあった。
二人の総得点数は満点にわずか数点届かないだけで、一位と二位の差はわずか一点であった。
その後のホームルーム。中間テスト発表の日は、その週のホームルームはその日に合わせることになっていた。
担任の梅岡は、正直戸惑っていた。
昨晩の学年担任ミーティングで、中間テストの結果発表と共に、突然高得点をマークした二人について、議題に上がったからだ。
一人目の柏葉については、そもそも優等生だったから問題はない。だが、もう一人の桜田ジュンは前回のテストまで中の下であったし、病気で寝込んでいてかなり勉強が遅れているはず。なのになぜこんな急に成績が良くなったのか、不正を働いたのではないか･･････本人は何も悪くないのにこの扱い、であった。
「確か、この桜田と柏葉は仲がよく、最近、柏葉が桜田に勉強を教えているという噂があるよな」
横柄に生活指導係員も兼務している、人相はヤクザまがいの教師の一人が言った。
「カンニングでもしたのかも」
別のくたびれたオールドミスそのものの教師も同調した。
他の教師たちも、日和見ながらで同調する。
「しかし、柏葉と桜田の席は離れていて、その可能性は低いと思いますが」
梅岡が弁護する。
「だけど、この数学の問題の解答。これ、二人があまりにも似すぎているんだけどね」
二つの答案用紙をひらつかせながら、手に持った指示棒でパシパシと叩く。
この教師はこれで生徒の頭を叩くのが趣味の、精神的習慣障がいの気のある数学担当である。
「しかし、模範解答であるのは間違いないですし、桜田と柏葉の回答の記述にそれぞれの癖があります。それは以前のテストと変わりが無いと思うのですが」
「こんな完全な模範解答が出てくること自体が気に入らないんだよ」
よく見ると、テスト問題には一度×を打った後に、再び○を付け直した跡があった。
「そんな……無茶な」
どうやら、この数学の教師は題意もろくに知らずにどこかから問題を引用してきたらしい。なので、とっさに正答を判断できなかったらしい。そこがどうにも悔しいらしい。それだけで、いちゃもんを付けている……。
「それに、この物理の問題……これは高等学校で習うことです。これを回答できるなんておかしいわ」
今度は理科の教師で、絶対に百点は取らせない主義の、執着性の強めな３０代の女性だった。
「なんで高校生向けの問題なんか」
「いいのよ。少々苦労した方が子供の為よ」
この調子で、各科目の教師達が文句を言う。
しかし、梅岡はしっかりと桜田と柏葉を弁護した。
「いくら先生方がそうおっしゃっても、二人は不正を働くような生徒ではありません。それよりも、どうして生徒が良い成績を取ったことを素直にほめてあげられないんですか？」
その言葉に、待ってましたとばかりに切り出す他の教師。
「そうはいってもねぇ。第一、梅岡先生自体、桜田の落書きを掲示板に貼って、桜田にショックを与えて、病気にしてしまった張本人ですからねぇ……」
と嫌味たっぷりに言った。
「それは……僕も責任を感じています。だからこそ、彼の成長をしっかり見守るべきだと考えて、そうしているつもりですし、今度のテストのことも彼の成長の一つだと思っています。なぜ、先生方はそれを否定なさるのですか」
ふふん、とせせら笑う他の教師たち。
「若いな」
既に決着は付いていた。梅岡は劣勢に立たされていた。そうなると、他の教師たちも梅岡を非難する側だ。
「ほんとそう」
「まったくねえ」
その瞬間、梅岡の中で何かがぱちん、と音を立ててはじけた。
それは、今まで必死に隠してきたものだった。が、もう限界だ。
「おめーら、黙っとけよ。さっきから人が黙って聞いていりゃ、何だよそれ。一人の生徒が努力して勝ち取った成績に対していちゃもん付けやがって。何の権利があってご託を抜かすんだ？ このバカども。冗談も大概にしやがれ、ってんだ。どのみち、何の因果か迷い込んだ教師人生、棒に振ったってどうでもいいぜ。何なら、ムショ暮らしも悪くねーな。あのな、世の中月夜の晩ばかりじゃねーんだよ、判っているんだろうな？ 何なら、ここで落とし前でも付けるか？ ん？」
突然、ドスの利いた声でゆっくりと、他の教師たちの目を一人一人、丁寧にガン付けしながら慣れた口調で啖呵を切り始めた梅岡。
上着を脱ぎ捨て、ネクタイを千切るように引き抜くと、教師たちに投げつけた。
「うわ」
暴力の世界をリアルで体験したものだけが持つ、独特のにおいをプンプンと発しながら、再び皆をにらみ付ける。
こうなると、子供たちの校内暴力でＰＴＳＤにかかってしまっている軟弱な口だけの教師というものはからきし弱い。
「き、きみ、暴力はイカンよ。暴力は」
先の生活指導係員が、途端に弱腰になって弱々しくつぶやく。
「あん？」
梅岡がひと睨みすると言った。
「俺は暴力なんて振るってませんよ。ただ、ちょっと皆さんの言いがかりに頭に来ているだけですよ、そう。頭に来ている……正直、この拳がウズウズしているわけでして」
そう言うなり、手刀を机に振り下ろす。大きな音と共に、頑丈なスチール製の机に亀裂が入った。
「おっと失礼。これは弁償しますよ……手すさびに空手もやっているもんでね。ついつい、力が入ってしまったよ、なぁ！」
言葉尻を上げたこの挑発で、体勢は一気に逆転した。
梅岡がこの場の空気を完全に掌握したのだ。
「ま、まぁ確かに子供を疑うというのはき、教育者としてあるまじき行為ですな……ははは。梅岡先生も、こ、興奮なさらずに」
数学教師が震えた声で取り繕った。
「まぁ、判っていただければ、わたしも事を荒立てることはないんですけどね」
ふっ、と、突然にいつもの温柔な梅岡に戻ると、穏やかな口調で答えた。
それがかえって、教師たちに新たな恐怖を与えた。
そういうことで、ジュンと巴に対する問責は反故となった。
自分の担任クラスはホームルームの時間。
梅岡は少し考え込んでいた。
自分は……自分は、実はかつて、いろいろとやってる過去を持っている。
だから、教師になってそんな過ちを繰り返す生徒が出てこないように努めようと考え、教師になった。
しかし、現実には上からのレポート要求やノルマやよく言われるところのモンスターペアレントに追われて、朝は８時から夜は１１時過ぎまで、つまらない書類や会議ばかり。その中で、いつしか偽善的になっていたんじゃないのか。
同僚たちも、時間と勤務評定に追われてしまい、自己の保身と特定の生徒イジメに走っている、この現状。こんなのが学校か、おれのやり方は？ その中で良い子振ろうとしていただけじゃないのか？
「先生」
おれは先生だ。でも。
「せんせい。なんとかしてください」
学級委員の柏葉の声に、はっ、と我に返る。
気がつくと、クラスはまとまりの付かない騒々しさの中にあった。
見れば、岸本と中西が騒動の中心だった。明らかに調子づいている。
自分は昔、そういうことをしていた側だからすぐ判る。
やおら立ち上がると、つかつかと岸本と中西の元に詰め寄る。
「おい、あまり調子こいてんじゃねーぞ。先生なめるな」
と、慣れたドスの利いた口調で釘を刺す。
それで、驚きと共に一斉に静まりかえる教室。
岸本と中西も、遙かに格上の元ワルの恫喝に、素直なところ、一気に尿意と便意を催したくらいだった。途端に大人しくなる。
「へぇー」
そんな梅岡を見て、ジュンは感心したようにこっそりと声を上げた。
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