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雪華綺晶あらわる ページ6
 10分ほど早足で駈けただろうか。
 気がつくと、普通の住宅街の中だった。
 この都市は、目抜き通りをうまく離れると、すぐ普通の住宅街になるといった区画分けがされていた。
「ここまで来ればあとは安心ね。そこにある、地下鉄の駅から帰るといいわ」
 少女は、住宅街から大通りに面したところにあった、地下鉄の駅の入り口を指さした。
「はぁ、はぁ……さすがに人間の体はしんどいわね、いえ……何でもないわ。それより、あなた誰ぇ? どうしてこんなお節介を?」
 水銀燈が尋ねた。
「それはそのうち分かるわ」
 少女はそう答えただけで、踵を返すと、走って姿を眩まそうとした。
 そして、そのままそこで転んでしまった。
「ちょっとぉ……大丈夫?」
 水銀燈があわてて駆け寄る。
「はぁ、はぁ。待って、水銀燈」息を切らしそうなめぐも駆け寄る。すっかり汗をかいてしまった。
「えっ……!?」
 そこで、水銀燈とめぐはとんでもないものを見てしまった。
 転んだ少女は、足の膝を痛めていた。
 人混みをかき分ける中、誰かに躓いたのだろう。
 問題は、その傷だった。
「あなた、これは一体?」
 少女、その正体はすなわち珠理、の膝は擦りむいて……いや、破けていた。
 しかし、赤い血は流れない。代わりに、トロリとした透明な液状の液体がこぼれていた。よく見ると、その奥に何かゲル状の透明なものがあり、その透けたゲルの奥に関節らしきものがうっすらと見えた、様な気がした。
「いや。見ないで」
 慌てて珠理はその部分を両手で隠した。
「……平気よ、そう。平気よ。このくらい……すぐに直るわ。だって、いままでこんなことくらいで破れたことはなかったんですもの」
 さっきまでの強気な感じは消え、怯えた声でつぶやく珠理。
「あなた。まさか、ドール!?」
「ええっ」
 水銀燈の言葉に、めぐも驚いた。
「なんで? まさか水銀燈、人形が動くわけ無いじゃない」
「あのねぇ、わたしがめぐの病室にいた頃、わたしはいったい何だったの? もう忘れたかしらぁ。おバカさんねぇ」
「あ、そうか。水銀燈もドールなのに動いていたんだっけ。てへ」
 思わず舌を出すめぐ。
「とにかく、早く出しなさいよ、めぐ」
「あっ。はい」
 水銀燈に促されて、めぐは持っていたトートバックから、救急セットを取り出した。
 やはり、かつて病人であった過去から、何種類の薬とか救急セットがないと落ち着かないのであった。

 幸いなことに、辺りはこの暑さのためか、ほとんど人の姿はなかった。
 たまに通りかかった者の好奇の視線は、めぐが人壁になって遮った。

 簡単な手当が終わる頃(といっても、不用意に薬を付けるわけにも行かず、包帯で隠すだけしかできなかった)、珠理は怪我のショックで、目にうっすらと涙を浮かべていた。
 気丈なようでいて、やはりまだ少女なのであった。
「はい。これで終わり。でもぉ、あんたもドールだったとは。意外なこともあるものね。それにしてもその関節。まさか、あんたのマエストロは完全関節を完成させたの?」
 水銀燈が驚いたように言った。
 こくり、と珠理は無言でうなずいた。
「驚いた。それじゃあんた、いいえ、あなた、その点ではかつてのわたしたちよりも、アリスに一歩近いドール、ってことになるわね」
「それは……違うわ」
 うつむき加減に、珠理は首を横に振る。
「でもぉ、わたしのお父様もついに完成させることが出来なかった完全関節。それをあなたのマエストロは実現した。これは大変なことだわ」

 完全関節。
 これはドールの関節でありながら、まったく人間と遜色ない機能と外観を持つ、究極の関節であった。あのローゼンですら、遂にそれをローゼンメイデン達に与えることはできなかった。
 従って、水銀燈、真紅初めドール達の関節は球体関節となっていた。
 ただ、わざと球体関節として残したとの説も伝わっている。
 どちらにしても、極めて精緻かつ絶妙な構造を持つヒトの関節を、手工芸で模すには想像を絶する職人の秘法が必要とされることは、医学書を紐解き、ヒトの関節の機能を調べてみればたやすく分かることである。
 当然、究極の作られし理想のドール、アリスには不可欠の技術だった。

「わたしは……わたしは。お父様がせっかくお造りになり、お父様から頂いた大切なこの体を傷つけてしまった。今まではこんなこと、無かったのに。わたしは、出来損ないの人形になってしまった」
 涙声になって嘆く珠理。
 めぐがおろおろし始めた。
「ど、どうしよう。水銀燈、泣かせちゃダメじゃないの。かわいそうに……」
「な、あんたねぇ……わたしのせいじゃないわよぉ。ちょっとこの娘がジャンクになってしまって、悲しんでいるだけじゃない」
 その言葉が、珠理の悲しみ玉を呼び起こしてしまった。
「ジャンク。そう、わたしはジャンクなのよ、もう。うえぇぇん……」
 あのさっきまでの強気はどこへやら、本格的に泣き出してしまった。
「あーあ、水銀燈、本当に泣かしちゃった。しーらない、っと」
「ち、ちょっと! なんでわたしなのよ!! ……あらぁ?」
 めぐの言葉に激昂する水銀燈だったが、ふと、街路タイル張りの路面に落ちていた、あるものを認めた。それは。
「これは。薔薇の刺? めぐ、ピンセット貸して」
 大げさね、と思いつつも、めぐは言われたとおりに救急セットからピンセットを取り出した。
 水銀燈は、そのピンセットで用心深く、薔薇の刺をつまもうとした。
 だが。
 とたんにピンセットの先端は、薔薇の刺による腐食性の何かでシュウ、と音を立てて溶けてしまった。
「えっ!?」
 驚くめぐ。
「やっぱりね。この刺が原因のようね……ここまで追いかけてきたのね。とっとと姿を現しなさいよ、雪華綺晶とかいう、お馬鹿ドール……」
 誰に話しかけるでもなく、水銀燈がつぶやいた。それに呼応して。
「ウフフフフ、ホホホホホ、アハハハハ……」
 街路タイル張りの歩道の脇に、たまたま植えられていた薔薇の樹。
 それは、排気ガスとこの熱気にやられて萎れ、みっともない様を晒していたが、不気味な少女の笑い声と共に生気を取り戻すと、むくむくと大きくなりさま、ポン、と先端の薔薇の花が赤から白へと変色し……それは雪華綺晶の眼帯となり、やがて顔が現れた。

「欲しい……そのカラダ、欲しい。ちょうだぁい、完全な関節。わたしに」
 妙に甲高い声で、恨めしそうにつぶやく雪華綺晶。
「こんなところまで現れるとは、まったく鬱陶しいドールだこと。いい? もうわたしたちはローゼンドールじゃないのよ。何がどうしてどうなったのやら、この世界では人間の体なのよぉ」
 嫌悪感むき出しの声で水銀燈が答えた。
 しかし、珠理は。
「違う。そのドールが狙っているのは……わたしよ。この完全関節を備えた、わたしの体を乗っ取ろうとしているのよ」
 珠理は無理を押して立ち上がった。
「痛っ」
 なんと、珠理の体には痛覚まで備わっているらしかった。
「素晴らしいわ。その体こそ、完全であるべきわたしに相応しいもの。さぁ、直ちにその体から出て行くのよ」
 ヒョロリと道端に生えていた薔薇の花の部分は、すっかり薔薇水晶の顔になっていた。そして、その毒の棘をタップリと備えた枝が蔓状になり、螺旋を描きながら素早い速度で珠理めがけて突進した。
「あっ……」
 さしもの素早い珠理であっても、その押し寄せる蔓から逃れるには、怪我のために動作が緩慢になりすぎていた。ああ、この娘、捕まってしまうわ、とめぐが思った。
 捕まれば。恐らくこの娘の体は、その劇薬を含んだ棘でビリビリに引き裂かれるだろう……だけど、今のわたしにはそれを防ぐべき力がないわぁ……と水銀燈が思った。今し方助けてもらった借りは貸さなくてはいけないのに。
 水銀燈は思わず唇を噛んだ。

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