しばらく黙り込んでいた水銀燈であったが、ふいに思い出したようにつぶやいた。
「あ、そろそろ時間。わたしもこの夢を見終えて、次の眠りの波に入り出す頃ねぇ……。そしたらこの世界は閉店」
この世界は、確かに水銀燈の夢の世界であったようだ。
「でも、どうやって帰れば？」
「そうね……たぶん、そのままここにいても周囲が消えるだけでしょうけど、ねぇ」
「そうなったら、みんな自然に夢から覚めるですぅ」
翠星石が安心しろ、とばかりにいった。
そこで水銀燈はわざと、少し迷ったような仕草を二人に見せた。
「水銀燈？ なにか？」
やはり、蒼星石の好奇心が頭をもたげてきたわぁ。水銀燈は思った。
「いえ。蒼星石、あなたは口が堅いわね。今からとある出口を教えるわ。そこで見たことは絶対に他人には喋らないこと。ただ、それを見てしまうとあなた、心が壊れちゃうかもぉ。それでも見たいというのなら……」
「ちょっと待つです。それは何かの仕掛け……罠なのではないのですか」
慎重な翠星石が待ったをかける。
それでも蒼星石は、
「教えてくれないか」
と水銀燈の誘いに乗ることにした。ここに来たのも何かの縁。と強く感じていた。
それに、アリスゲームは中断しているし、蒼星石自体は今のところそのゲームをリタイアしている。
あえて水銀燈が自分に何かを仕掛ける理由が見あたらなかった。
「わかったわ。驚かないでね。……こっちよ」
そういうと水銀燈は立ち上がり、ある方向を目指して歩き始めた。
「あっ。蒼星石、いってはダメです。ええい、翠星石もいくです」
そうして翠星石も、後に続いた。
白い世界にやがてぼうっと、薄白いモヤが生じ始めた。
「ここは？」
「後ろをご覧なさぁい」
視線を転じて、真後ろを見てみた。そこには一面の壁が広がっていた。上下左右いずれにも永遠に広がっていて、終わりというものがない。
「あれ？ 僕たち、もしかして……宙に浮いてる！？」
「ええ。でも、あなたドールの時はしょっちゅう宙に浮いていたんじゃぁないの？」
あきれたように水銀燈。
「そうだったね。僕もこの体になって、かなり変わったものだね」妙に納得する。
「うわぁ。た、高いです」
翠星石が必死に妹にしがみつく。
「行くわよ」
三人は、さらに壁に近寄った。
じょじょに壁の表面の詳細が明らかに。
見ると、さまざまな色の小さな光点があちらこちらでせわしなくその表面あたりを飛び交ったり、あるいは突然ふっ、と姿を消してしまったり、かと思えば何もなかった空間に突如として現れたりする。
「これは……」
「天然精霊たち」
驚いたように翠星石と蒼星石。
「これが天然精霊。ということはこの壁はもしかして」
「そうよ。これが世界樹本体よぉ」
いくつもの「うろ」を持つ世界樹。さまざまなうろを眺めつつ、ずうっと上の方へと昇っていくと、とてつもなく大きな「枝」にぶつかる。
「いくわよ」
枝の頂点に上り詰めて、それからすぐの場所に、巨大な「うろ」があった。
「これは……」思わずごくり、と蒼星石は生唾を飲んだ。なにかの大きな期待。それは、今まで待ち望んでいてかなえられなかったものが叶う予感。
かたや翠星石は、さっきまでの自信たっぷりの態度はどこへやら、びくびくと怯えながら双子である妹にピッタリとくっついたまま、何かをいおうと思いつつも、言葉に詰まっていた。
それを横目で見た水銀燈は、ここいらが潮時だと思った。
これは蒼星石への罪滅ぼしになるのか、それとも、また自分が仇とされることになるのか、それはわからない。
ただ、この、「あること」を自分一人だけのものにしておくというのはどうにもバランスが取れないと感じていた。
……それが解決される。
もちろん、安易に妹たち全てに知らせるべきではないが、蒼星石なら大丈夫だろう、そう水銀燈はふんでいた。
一人、翠星石までおまけに付いてきてしまったのは計算外だったが、いつも計算なんて自分の思っていた答えとは食い違うものだから。
（気にしなぁい）であった。
「さてと。わたしはここまで。この先は、あなたがたで行ってちょうだい。それにしても、蒼星石と翠星石。あなたたち二人が一緒にお泊まりすると、こんなことが起きるのねぇ。ま、このことはだれにも喋らないこと。特に真紅には絶対にねぇ。ばいばぁい」
蒼星石が姉妹の仲で一番、口の堅い娘なのは知っていた。
その性質を受け継いで、翠星石も口が堅い方であることには期待しよう……そんな水銀燈だった。
自分たちを急に置いてきぼりにして飛び去ろうとする水銀燈に、蒼星石はあわてて声をかけた。
「えっ？ 僕たちで？ 一体ここにはなにが？」
やはりこれは何かの罠？……そう思った。しかし、わざわざ水銀燈が自分に罠を仕掛ける理由がやはり……見あたらない。今となっては敵対関係にあるわけでもない。
また、水銀燈は目的がない限り、真紅を除いて、不必要に他者を陥れたりからかったり趣味はない、ストイックな性格のはずだ。
「ま、このまま帰りたければ帰ってもいいわ。その方がいいかもね。でも、見ておいた方が面白いし、それであなたがどう感じるか、どう思うかも知りたいし」
水銀燈が、自分の意見を欲しがっている……。
これは蒼星石に取り、軽い衝撃だった。あの孤高の水銀燈がそんなことを。
気がつくと、もう水銀燈の姿はどこにもなかった。
「よし」決意した。「翠星石、行くよ」
「はいですぅ」
しぶしぶと付いてくる翠星石。
入り口あたりは雑然としてたが、中に進むにつれて円筒状のつややかな壁と程よく慣らされた歩きやすい通路が現れ、通路はゆったりとカーブを描き、さらに奥に続く。
ずんずん進むと、壁には丁寧な彫刻細工が現れ、気の利いた絵画も飾られていることに気づき、最後には、重厚な造りを思わせる西洋建築内部の廊下を歩いていた。
広い廊下にはところどころ優れた本物の芸術家の手による彫刻や、生け花をたっぷりと活けた花器などが飾ってある。なぜか程よい光に満ちていて、行く手を妨げるようなことはない。
扉が並んでいた。が、そのうちの一つの扉は開け放たれていた。中では、一人の男が仕事をしていた。
その仕事は人形師。
「お、お父様……」
思わず蒼星石はつぶやいた。と、同時に足が勝手に駆けだして。
まだ、自分にしがみついている翠星石を優しくふりほどく。
「あ、ちょいと待つです蒼星石。え、まさかまさかそんなはずか、そんなぁ。こ、心の準備というものが」
翠星石も全身を何かで強くうたれたような衝撃を感じていた。
「お父様、僕です。蒼星石です！」
ちょうど部屋の中央で、立ったままなにかを考え込んでいる様子のローゼンの懐に飛び込もうとする。
しかし、その体はローゼンの体をすり抜けてしまった。
「お父様！」
何度も声をかけ、久しぶりの父との再会を果たそうとするが、どうも父からはこちらの姿は見えず、感じ取ることもできない様子。
あっけにとられているのは、入り口のところに釘付けになった翠星石。
「ま、まさかですぅ。こんなにあっさりと、アリスになってもいないのにお父様に会えるなんて……い、いいえいいえ。これは悪い夢ですう。もしくは水銀燈の陰謀ですぅ」
頭を振り振り、これが悪い冗談なのか、それともタチの悪い夢想が作り出した悪夢なのか。
そうであるのなら、とっとと目が覚めて欲しい、そう願う翠星石であった。
けれども、翠星石の「力」はそうでないことを自身に告げていた。
蒼星石はつぶやいた。
「これは幻？ フェイク？ 罠？ それとも僕の見ている夢？ 翠星石、どう思う？」
最後の説明が最も妥当なものに思えた。が、そう納得してしまうには水銀燈の世界に迷い込んでしまった時の「痛覚」の記憶が邪魔をする。
意外と、ホッペをつねると夢から覚めるというのは正しいのであって、さらに「夢」の世界へと自由に出入りできる力を持つ蒼星石に取り、現実と夢の区別を付ける識別眼は姉の翠星石と並び、一点の曇りもなく正確であった。
その翠星石がこわばってしまった体をかろうじて、いうことを聞かせると、やっとそばに来て、問いに答えた。
「やはり……これは夢想が作り上げた世界ではなく、現実の世界の写し絵ですぅ」
「翠星石がそういうのなら、間違いない。なんてことだろう。これじゃ、アリスゲームの意味そのものが反故になってしまう」
「うーん、でもどうやら、お父様からはこちらは見えないようですよ。実際に会えないのなら、まだアリスゲーム自体は続いていると見るのが正しいかもです」
とはいいつつも、翠星石も自信はなかった。中断されたアリスゲームは続いているのかどうなのか、それとも……？
「まぁ、とりあえずお父様に挨拶して帰るです。せっかくこうしてお父様に会えたのに悔しい限りですが、蒼星石。そろそろ、翠星石たちも夢からさめる頃合いですぅ。ここがどういう空間なのか正体がはっきりしない以上、長居は危険と思うです」
「そうだね、翠星石」
ふうっ、とため息をつくと姉に従うことにした。
水銀燈が見せたがっていたのはこういうことなのか……改めて思わせぶりな水銀燈のあの様子に納得する二人。何百年も夢見、そして求めてきたものがこうもあっさりと目前に現れると、逆にこれといった感慨も湧かないものなのだなぁ……二人にとって、これが偽らざる感想であった。
けれども、名残惜しいこと、まさに心をかきむしられる思いであった。それでも、ここは一度、勇気を持ってこの場を辞さなければいけない。そう判断したのだから。
「お父様……僕は元気です。こうして僕の姿を見ていただけないのは残念ですが、お父様も元気なご様子で安心しました。僕はとりあえず帰ります。また、お会いできたら、いや、また会いに来ます。どうぞ、お健やかに」
アイデアを思いついたのか急に顔を上げてノートを取りメモを始めた我が父、ローゼンにていねいにうやうやしく礼をする蒼星石。
「お父様……いろいろあるけどみんな元気ですぅ。また、いつか、いえ、そのうちに、絶対また会うです」
翠星石もそれにならって、父にうやうやしく会釈すると共に、いとまの言葉を告げた。二人とも、それがしばしのあいだに過ぎないことを強く願って。
二人の姉妹はそっ、と父の仕事部屋を後にすると、廊下に出た。
帰ろう。
そう思って出口に向かう途中。別の部屋の扉の一つが開いているのを見つけた。
「あれ？」
ほのかに中は明るいようだ。それは、室内の精霊たちの放つ光だった。ついつい、蒼星石は中の様子をうかがうと……そこには。
「え？ これって、僕たち？」
豪勢な造りの室内に凝った造りの椅子が７つ。
その椅子には７体のドールが、衣装も整えられた完成型で座らされていた。
それぞれ水銀燈、金糸雀、翠星石、そして自分である蒼星石、真紅、雛苺。
そして……最後の椅子には雪華綺晶。
これにはびっくりである。
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